平安京のニオイ/安田政彦 吉川弘文館
排出する都市パリ 泥・ごみ・汚臭と疫病の時代/アルフレッド・フランクラン 悠書館
においの歴史嗅覚と社会的想像力/アラン・コルバン 新評論
死者たちの中世/勝田至 吉川弘文館
家と村の儀礼日本歴史民俗論集6/峰岸純夫・福田アジオ・編 吉川弘文館
祖先祭祀の研究/田中久夫 弘文堂
葬と供養/五来重 東方出版
穢と大祓/山本幸司 平凡社選書
葬式あの世への民俗/須藤久 青弓社
日本人の葬儀/新谷尚紀 紀伊国屋書店
忘れられた霊場中世心性史の試み/中野豈任 平凡社選書123
香水ある人殺しの物語/パトリック・ジュースキント 文藝春秋
匂いの文化誌/小泉武夫 リブロポート
匂いの中の日本文化/小泉武夫 NGS出版

ベルサイユ宮殿にトイレが無かったことは有名です。
まあ、正確に言えば、ルイ16世(マリー・アントワネットの旦那さん)だけが使用するのトイレが、1つありました。
フランスでは、17世紀になって、ようやく「穴あき椅子」(幼児のオマルと同じです)が普及してきましたが、その「穴あき椅子」を使用する人は、ごく一部の貴族と「天使の尻」を持つ司祭様達ばかりでした。
(ルーブル宮へ「穴あき椅子」を設置するよう請願した文書を読むと、当時の宮殿内は・・・・・凄まじいです。)
穴あき椅子に座ったまま食事をし、会議をし、謁見し、排泄物を受ける器を空けて
は、その容器を使って髭剃りを始める・・・・
19世紀ロンドンでの垂れ流しも知っていたので、8世紀前後の日本では、さぞかし・・・・・

(でも、確か光源氏のお母さんは、寵愛を妬むお局さんからイジメにあって、廊下にオマルの中身を撒かれたんではなかったかな?結構、管理されていたのだろうか?)
過去の世界を記述した書物を読んでいつも痛感することは、自分が想像する過去世界に「均一な後進性」のイメージを覆ってしまって、文明や社会、技術、人の意識もみな「遅れて」、前近代、土俗、原始的な世界なのだと断定してしまっていることです。
(同時代の他国や他風習・他文化想像にも、同じ事が言えます。)

でも、違うんです。
世界は、デコボコとした変容過程の集合体なのです。

臭(にお)い、匂い、ニオイは、生きている(いた)「証し」ですし、生活や社会の「顔」でもあります。

平安京時代は、庶民は路傍排便で、身分が高くなると「箱や筒」、樋殿と呼ばれた
「板敷きに穴」を穿ち大壺を置いていた場所や、部屋の隅に小用のための「穴」を開けたものや、屋敷内に水を引き「木樋に水」を流した水洗トイレのようなものも、
あったようです。

内裏の女房達は、しゃがんで用を足したようですが、一般的には女性は立小便だったのです。

なんと!女性が立小便!と、驚くなかれ、つい30年ほど前までTOTOは、女性用立小便器を製造・設置していたのですから、身近で見かけることもあるかもしれません。
(東京国立競技場トラック下のトイレや茅ヶ崎の厚生会館に、まだあるそうです。)もちろん、今現在でも、その姿勢を保っている女性もおられるのだと思います。
私は、小学生の頃、田んぼのあぜ道で立って用をたしているおばあさんを見て、ビックリした記憶があります。
そう言えば、男性の「座っての小用」が、激増しているそうで、その理由は・・・・
いけない、いけない!いつもの癖で話が逸れてしまう。

平安市中のニオイは、もちろん排便だけではありません。
京内の側溝に流れてくるのは、生活用水や排泄物だけではなく、時には動物の死骸や人間の死体も流れてきて、度々厳命の清掃命令が出されていたようです。
その当時は、お墓埋葬ではなくて、死体の路傍放置や風葬が常識で、野犬によって食べられる事が、当たり前だったのです。
「葬」という字は、「ムシロ」の上に「死(体)」を置いて、その上に「草」をかぶせた字になっています。
(犬が死体を咥えて内裏に入ってくるのですが、死体が放置された内裏内の「場所」や残った「死体の部位」や「新旧」によって、穢れの度合いを占って、慎みの期間を7日間にしたり30日間にしたり、決定をしていたのです。)

そもそも「死」の概念や風習が、全く違っていたのです。
幼児の死者は、身分の差もなく野外放置でした。
「7歳以前、葬礼なく仏事なし」が「普通の例」で、「袋に収め山野に堕(す)ておわんぬ」と言われていました。
多産多死の時代だから、情に薄いのかと言えばとんでもありません。
幼児の魂がすぐに復活して欲しいと願い、成仏を願わなかったからなのです。
(きちんと葬式をあげて成仏してしまったら、逢えなくなってしまうと考えたのです。)

「お墓」の概念が成り立つには、少なくともその「死者」と「墓」が(塔、建物、場所・・・)結びついていなければなりません。
死者の魂や死者の思い出が、その場所に「いる(ある)」ということが前提でなければ、「墓」である必要がないのです。
同時に、「墓」の場所を造ることは、生者の現実空間(村落や都)形成と不可分でもあります。
そして、一の谷中世墳墓郡を始めとする共同墓地が現れるのは、12世紀後半から13世紀にかけてなのです。

確かに中世後期の公家の日記や公文書によると、13世紀になって急激に五体不具穢
(完全に揃っていない死体)が減少します。
なぜ死体放置の記録が減ったのかと考えると、都市に墓が生まれ、みんながそこに埋葬し始めたからだと考えられますが、ことはそんなに簡単ではありません。
先の「お墓」の概念形成や意味、なぜ都市の中でその場所なのか、同様に「葬儀」の概念発生や意味、誰が葬儀を行い、墓まで運んだのか、「坂非人」「犬神人」「河原者」(皆、違う役割と組織を持っています)達が、どんな形で関わり、組織化されたり経済的保障がなされたのか、僧侶や身分差、地域差は、どうだったのか、その裏づけと変遷は・・・・・・

死体や骨も同様に、それが「死者」と結びつけられる必要があり、「動いていた人」と「動かなくなった人」の差異と現実認識は、無数の形態と行為で彩られているのです。

お〜!いけん、いけん!またまた、話が逸れてしもうた。

ニオイがある生活だから、ニオイへ対する関心も湧き、「臭い」(不快なにおい)の中に「匂い」(心地よい)の工夫と文化が生まれてもくるのです。
「衣香」「移り香」「残り香」「体香」「薫物(たきもの)の香」「扇・紙の香」・・・・

様々なモノのニオイへの注視や、あるものをニオイで覆ったり、ニオイで封印してしまう思想は、なぜ生まれるのか?
当時のニオイ環境にいる人達は、必死にそのニオイに耐えていたのだろうか。
現在ならば、一瞬たりともその場に居られないだろう激臭の中で、彼らはなぜ一生を過ごす事が出来たのだろうか?

不思議なことに、時代時代によって、ニオイに関する記述の「量」が違うのです。
環境は変わっていないのに、急に「悪臭」と騒ぎ始めたり、その元凶探しが始まり
「娼婦」や「病者」を特定して(社会的偏見やスケープゴートがほとんどです)彼らを排斥してしまうと、悪臭の環境が変わらなくても(!)ニオイの問題記述が無くなったりします。

さらに、ニオイに関する「対象」も時代によって違います。
排便の悪臭が問題になったと思ったら、獣の臭いだったり、特定階級人の体臭や口臭だったり(低い階級だけではなく、高い階級がターゲットである時もあります)死体の体液やガスだったり、植物性香水だったり、土地のニオイだったり・・・・

ということは、この「臭さ」は絶対的ではなく、時代によって創られた「臭さ」なの?
「ニオイ」って、「思い込み」か?
息子のオナラの、あの強烈な「ニオイ」が、幻想?
そんな、バカな!

しかし、どうも「ニオイ」には、そんな要素(コルバンのいう「社会的想像力」)があるようですし、その創られた「ニオイ」が、「ニオイ」の本体として語られるようです。
「ニオイ」の元はあるのでしょうが、それは、それだけでは「ニオイ」にはならなくて、それを、その当時の人が「意識化」して、初めて「ニオイ」が「存在する」のです。

あ〜!またまた、話が脱線してしまった・・・・・・が、もう話を戻す紙面も尽きました。

現在は、「無臭の社会」と言われています。

ちょっとでもニオイがすると大騒ぎして、ニオイを消そうとしたり、ニオイの元(その物質や「創られたニオイ」)を完全に否定したり、「別のニオイ」で「別のもの(!)」にしようとします。
ニオイを避け、ニオイそのものを拒否し、「無臭の世界」に安らぎを覚えようとしているこの現代って?

私達が、無臭の社会に生きていること・・・・「無臭」という「ニオイ」を「意識化」していること・・・・生きている「証し」と「顔」を手放していること・・・・・

古の人々が、「いとあはれなり」と囁いている声が、聞こえます。
(2007年6月)