原寸美術館/結城昌子 小学館

こんな画集・・・・この名画が・・・・

言われてみると教科書に載っている名画の大きさなんて、想像もしていませんでし
た。
ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」ミケランジェロの「天地創造」って、こんなにデカ
かったのか!
普通の画集大に広がった「天地創造」の指先のタッチが、こんな風だったとは・・・スーラの点描やゴッホの筆遣い、モネの色やのマネの「フォリー・ベルジェールの
バー」で描かれているグラスが・・・

精緻に見えリアルに感じるこの描写が、いかにスーパーリアルとは違う人間のイメージの産物なのかと言うことが分かると同時に、我々の世界像は正確な情報の集積では決してありえないことにも気付きます。

そして、絵画はその絵画鑑賞の距離があり(まさしく絵画の大きさが重要です)、画家がその距離を考えて描いているという驚きです。
またそんな画家は、我々と同じ人間寸法しかないので、原寸大のタッチに画家の技術や美への想いが如実に現れていることの新鮮さを味わえます。

衝撃的な「新しい絵画鑑賞」の体験です。

チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ/堀川惠子小笠原信之 日本評論社

戦争のこと、原爆のこと、貧富のこと、差別のこと、障害のこと、病のこと、悩みや苦しみのこと・・・・
他者を想像するとは、どういうことなのだろう?
いくら想像しても想像し切れないのが分かっていて、想像を強いられる重苦しさと罪悪感、後ろめたさと願う事への無力感を、どう考えてゆけばいいのだろう?

原爆投下日、ヒロシマを走っていたチンチン電車の運転手と車掌の7割が、14〜17歳の女学生(今の中・高生)だったのです。

1943年4月に開校し、敗戦までのたった2年半だけ存在していた「広島電鉄家政女学校」、それが彼女達の母校です。
戦況が厳しくなり、男達は戦場に狩り出され、日常生活の多くの場所で女性や少女・子どもたちがその代役を負うようになりました。
1943年9月には、国の方針として女子勤労動員促進か決定され、厚生省は男性の就業禁止職種まで指定して、女性による代替を規定しました。
「広島電鉄家政女学校」もそんな流れの中での開校だったのです。

入学式が同時に入社式であったこの学校は、たんに時代のあだ花というだけではな
く、彼女達にとっては希望の場所であったという面も否めません。

その当時、家庭が貧しかったり、家族の事情で小学から進学できずに、勉学を諦める子ども達は多数いました。
そんな彼女達にとって、賃金をもらいながら学べるという女学校は、親や親戚を納得させる事が出来る、唯一の方法だったのです。
現に、家政女学校の入学者が、広島市から遠く離れた郡部の農山村や離島出身者、他県の女子がほとんどでした。
3期生309人が集ったそんな女学校も、終戦後男性が帰国すると人手不足は解消され、当然ながら閉校となってしまいます。

抗えない時代の中で彼女達は、慢性的な睡眠不足をおして学び、働き、親を想い、恋をして、友達と過ごし、あの日をむかえました。

「幻の女学校」と言われ、広島の人々もほとんど知らない彼女達の青春と地獄は、決して「幻」ではありません。
「幻」の命なんてものは、無いのです。
我々が想像する他者は、確かにそこに「いた」「いる」のです。
「いた」「いる」そのままの事実を想像することは出来ません。
しかし、「いた」「いる」ことを想像することは出来ます。

本書を起こした堀川さんは、2003年に初めて女学校の事を聞き、女学生を誰一人として知る人もいない現実の中で、単独で山ほどの未整理ダンボールの中から家政女学校の名簿資料を見つけ出したのが、33才の時でした。
2005年1月の読書感想文で紹介した、「夕凪の街桜の国」の作者こうの史代さんも、30代半ばです。

戦争のこと、原爆のこと、貧富のこと、差別のこと、障害のこと、病のこと、悩みや苦しみのこと・・・・
他者を想像するとは、どういうことなのだろう?
いくら想像しても想像し切れないのが分かっていて、想像を強いられる重苦しさと罪悪感、後ろめたさと願う事への無力感を、どう考えてゆけばいいのだろうか、私は。
(2005年9月)