西の魔女が死んだ/梨木香歩 楡出版

今年の夏、最大の収穫でした。

鉤鼻の魔女が出てくるファンタジーでも、現実離れした甘い児童文学でもありません。
物語が語ることが出来る、人の絆や感情の不自由さ、自然の光と死の不安が凝縮された秀作です。

そしてこの本は、子どもが私に薦めてくれた「初めての本」だったのです。

徳さんは、完全にやられてしまいました。

小児救急「悲しみの家族たち」の物語/鈴木敦秋 講談社

「瀕死の小児医療」

たらい回しや誤診によって奪われる子どもの命、良心あるが故に自殺にまで追いやられる激務の小児科医、一時の話題に群がるメディア、保身と責任のなすりあいの医療界と無関心な私達。

瀕死になっているのは、気付かない「我々」そのものなのです。

ぼく、あいにきたよ/明川哲也・文児嶋サコ・絵 文藝春秋

鳥肌が立つぐらい哀切な絵本です。

児童虐待の本ではありますが、虐待にあっている子ども達が特別な態度の子であったり、親が生来からの異常感性であるとかではなく、どの子も同じように親を求め、親も子を支えに生きているという普遍的な世界が描かれています。
これだけ大きな話題になっているのに、一向に減る傾向になくむしろ件数が増えているのは、「虐待」が普通の世界構造に根を張っていて、関係性や不安の小波が押し寄せただけで、簡単に立ち上がってくるからです。

そして、普通の世界構造で起こる矛盾のしわ寄せは、常に強者や弱者などという「特別」ではなく、「普通」の領域に押し寄せてくるのです。

我々の意識の深い所にある気付かない、気付こうとしない、気付きたくない問題が、「特別」というような形で流出しているだけで、変容してきている芯は、我々自身が大事に大事に抱えているのです。
虐待の卵は、私が抱え、あなたが抱えているのです。

だからこそ「ぼく」の「ごめんなさい。」は、胸にこたえます。
彼の涙は、私の涙であり、あなたの涙なんです。
逢いに来ているのは、「ぼく」という「私」なのです。
(2005年8月)