ALS不動の身体と息する機械/立岩真也 医学書院

筋萎縮性側索硬化症(ALS)は、近年様々なメディアで紹介されてきたので、知っている人も多いと思います。
私の子どもの同級生もこの難病を患っていて、先日の運動会に車椅子で参加していました。

頭脳は全く問題ないままで、少しずつ身体が動かなくなり、次第に呼吸器系統の機能も衰えてくるので、人工呼吸器を装着しなければ、亡くなってしまう原因不明の病気です。

批判を承知で告白しますが、ALSに興味を持ったのは、意識を保ったまま身体の機能が失われてゆく現象から、身体性の意味や意識と身体の関係を考えてみたかったという事、そして人工呼吸器を着けるか否かの選択は、自分の死生を選択するということと同じで、人が直面する究極の選択だと思ったからです。

その上で「病」は、人の心身に起こった現象を分類的に命名したもので(人間が意図的に付けるのですから、錯誤も偏見も挿し挟まってしまいます)氏名や記憶や様々な人生体験を持った「生身の人間」を抜きには、ただ一つの病も存在しない(!)のです。

人間の身体機能や病を考える時、その個人の総体と身体や病との関係の狭間で、いつも立ち行かなくなってしまいます。

実際に今までもALS関係の本を何冊も本を読んできました。
しかし、医療者の本では筋肉の細胞が擬人化されるほど生々しく現れますが、患者の生活や顔はさっぱり浮かんできません。
また、患者の闘病記を読むと、一気にその人の人生がメインになってしまいます。

当たり前です。
当たり前なのですが、どうもそこら辺がいつも、もどかしく感じていたのです。

本書を開いてもらうと分かりますが、今までに無い形態の文章です。
発言、文書などが短文で羅列され、その間に疑問や問題提議がされていますが、決定されたり停滞することがなく連動しているのです。
ネットのブログやリンクを思わせ、重層的で常にどこかに開いている文体は、病にも病者にも偏ることなく等価の往復運動が可能になっています。

正直言って私の力では、この本に内包している問題を現時点で述べることは出来ません。
これから10年ぐらいかけて、少しずつ考えてゆきたいと思っています。
自分で消化も出来ていないのに無責任ですが、一人でも多くの人に読んで欲しいの
で、感想文ならず紹介文をしたためます。

間違いなく、時間を超え名著と呼ばれるようになる書物です。

孤独な魂の叫び/ファーブロウ、シュナイドマン/大原健士郎他訳 誠信書房
自殺未遂「死にたい」と「生きたい」の心理学/高橋祥友 講談社
群発自殺流行を防ぎ・模倣を止める/高橋祥友 講談社

この感想文欄で、何度も取り上げている「自殺」の問題です。

私が執拗にこの問題を取り上げるのは、「自殺」問題の重大性を多くの人に理解してもらい、本人はもとより周りの人が注意と理解を払うことによって、一人でも死の淵から帰ってきて欲しいからです。
と同時に、私自身がこの問題をどう考えたらいいか判らないからでもあります。

死にたいほどの苦悩や病が本人を支配している時、本人は思考の視野狭窄に陥っていて、外からの「そんなことぐらい」とか「死ぬくらいなら」などの視点は、全く届かないのです。
悩みや死は正に個人的な問題であるかもしれませんが、その行為の選択においては、メディアの情報頻度や流行(アイドルの飛び降りや練炭による集団自殺報道など)に大きく影響される「社会的問題」でもあります。

「個」の問題が深化してゆき、極端に選択する力が失われた時、人は社会存在の呪縛に絡め取られ、共同体の力学で「個死」を選んでしまう悲劇がそこにはあるのです。悩みを無くすことは出来ませんが、追い詰められた選択肢に社会的要素が大きいのなら、社会の対応で別の選択が浮かび上がってくることが十分可能です。
ここにおいて、社会としての自殺予防体制の責務があると思います。

では、私やあなたが個人として「自殺」の問題をどう考えればいいのでしょうか?

自分が自殺希求に陥ってしまった時、自力で暗い穴から這い上がるのは、とても困難です。
無理とは断定できませんが、思考の視野狭窄の中で、他の方法を捻出したり他者に助けを求めたりすることが出来ないのが、自殺の心理状態なのです。
私も、あなたも例外ではありません。

日頃から多様な価値観を持つようにするとか、うつ的状態になった時にはすぐに病院の門を叩くとか、周りの人間の落ち込みに注意を払い、声掛けや休養を薦めるとか、他人の悩みに時間を惜しまず耳を傾けるとかの対策は、より一層心掛けるべきです。しかし、その上でも「自殺」の行為の前には、無力感が付きまとってしまいます。
どこか「根本的に」後手のような、対処療法のような印象が否めません。

ずっとそんな感じを抱いたまま、自殺の問題の前で立ちすくんでいました。
まだ、その呪縛から解き放たれた気はしていないのですが、この頃少し思う事があります。

「なぜ彼らは死んでしまったのか?」「どうしてそんなことで死ななくてはいけな
かったのか?」と理由を問うたり、本人の特別な状態を探るのではなく、「なぜ私は自殺していないのか?」と問うことでしか、「自殺」への問いは開かないのではないかと。
「なぜ私は自殺していないのか?」・・・・

「自殺」は「死」の一形態ではないのです。
結果としての「死」はありますが、「自殺」は「生」の中にあり、紛れもなく「生」の活動であり、私の「生」の中に「彼、彼女達の自殺、私の自殺」があるはずなんです。

なぜ私は自殺しないで、今生きているのですか?
なぜあなたは?
(2005年6月)