夕凪の街桜の国/こうの史代 双葉社

2005年が、どのような年になるのか分かりませんが、一つ言えるのはこれから起こる事を、私が「体験して」ゆくということです。
未来は「未体験」の仮称でもあります。
「体験」の中身は、もちろん身を切る哀しみや喜びもありますが、新しい知識を得たり、遠地の事件情報に触れ、内省する体験も含まれています。

この意味で言うと、過去は「体験の記憶」と言うことになりまが、実際の身体的体験も、受けた衝撃も、すべて無形の「記憶」や「痕跡の解釈」にすがっているのです。

ここで語られている「体験」の中身は、「私自身」という時間・空間軸に限定されているようですが、しかしよく考えてみると「体験」する事象のほとんどは、過去の「他者体験の記憶」であり私の「未体験の記憶」を「体験」しているのです。
もちろん、他者の「体験」を「体験」することは不可能であり、「他者体験の記憶」を「自己解釈」することだけが可能なのです。

原爆のこと、戦争のこと、差別のこと、貧困のことなどに触れる時、頭での理解を超えて心の奥底で「反発」と「戸惑い」「うしろめたさ」を感じてしまいます。
そして、そう感じてしまう自分に嫌悪感が湧き、背を向けたまま「体験」を拒否してしまうのです。

体験者や映像が語る本人達の体験の凄まじさは、とても私の体験で想像も出来ないし、無力感や知識としての平和希求に収斂してしまうのがおちです。
他者の体験は体験出来ないのだと「反発」を覚え、必死な訴えに共鳴しようと思うが故、その落差に「戸惑い」を感じ、眼前の浮世に広がる安息をむさぼって生きのびている自分の「うしろめたさ」に逃げ出してしまうのです。
そして逃げ出しながら、この「うしろめたさ」を否定した原爆論や差別論・平和論は、全て無効だ!と捨て台詞のように呟いていたのです。

『夕凪の街桜の国』は、戦後60年経ってはじめて産み落とされた、「うしろめたさ」を否定しないコミック作品です。

我々が「他者の体験」を「体験」できるのは、原爆を体験した人達の生き延びてしまった「うしろめたさ」を、自分の「うしろめたさ」で「引き受ける」ことから初めて可能になるのだと思います。
「体験」の無い未来を生きないためにも・・・・

ネグレクト育児放棄 真奈ちゃんはなぜ死んだか/杉山春 小学館

真奈ちゃんは、2000年12月10日に亡くなりました。
みかん箱大の底の抜けた段ボール箱の中で、両膝を曲げた状態でひっそりと息を引取りました。
段ボール箱にはタオルケットが敷かれ、使い古しの段ボールが被せられ、20日間近くも食事を与えられずに、極度の餓死でした。

3歳になった真奈ちゃんは、その時の体重は5kgしかありませんでした。
皮下脂肪は失われ、頬はこけ、目の周りの脂肪も無くなっていたので瞼を閉じる事も出来ずに、眼球は剥き出しのまま乾燥し、白目は黒褐色に変色していました。
司法解剖の結果、腸管などの脂肪もなくなり、内臓のタンパク質すら分解し切っていました。
公判で、司法解剖を担当した医師は「これまで500例の司法解剖を手掛けてきましたが、ここまでの飢餓は初めてです。」と証言しています。

正常分娩で3.5kg以上の元気に生まれた真奈ちゃんが、なぜこのような形で死を迎えなければいけなかったのでしょうか?

児童虐待は、「子どもを叩いたりする暴力的虐待」「子どもに対して否定的な言葉を投げかけたりなどする心理的虐待」「育児を放棄する(ネグレクト)虐待」「性的虐待」の4つに分類されます。

昨年、児童相談所の虐待相談処理件数は、2万6569件にのぼりました。
その数は年々急激に増え続け、留まる兆しはありません。

児童虐待は英語で「maltreatment」といいます。
子どもに対する「不適切な扱い」と広い意味で考えられているのです。

「しつけ」や「言っても分からない子は叩かないと分からん」「殴ってでも教えなければいけないことは、親の責任だから」「勉強が出来ないのは、努力が足りないから」「我慢も教えてやらなければ」「寝ているからちょっとの間は大丈夫だろう」「お金は渡しているから、自分で」「スキンシップのつもりで」・・・・・「子どもの事は、もちろん愛していますよ。」

英語で児童虐待をもう一つの言葉で表現されています。
「childabuse」
直訳すると「子ども乱用」です。
「alcoholabuse」を「アルコール乱用=アルコール依存症」と表現するように、親自身の心の問題を「子ども」を「使って」表出しているのです。
自己の空漠とした不安を、「子ども」の「不適切な扱い」で癒そうとしているのです。

虐待の系譜と言われるように、虐待する親がその親から虐待を受けていた例は多いです。
真奈ちゃんの若い親達も、そのように見えなくもありません。
しかし、この本を読んで見えてくるのは、「特別な環境」で育った「特別な親」が起こす、「特別な事件」ではない、誰もが抱えている「普通の問題」なんです。

核家族化が進み、母親は一人育児の悩みを抱え、孤独感を深めています。
父親は仕事からのストレスに心身ともに病み、イライラした気持ちを子どもにぶつけてしまいます。
他の子との違いに自信を失い、親族の対応に不満を募らせ、お金の問題は年々重く圧し掛かってきます。

真奈ちゃんの両親も、まさにそうだったのです。
どこにあなた達と違いがあるのですか?

子育て中の母親の3〜4人に一人は、育児不安を抱えいつ虐待になってもおかしくない、虐待予備軍だと言われています。
先日厚生労働省が2歳半児を持つ親の調査として発表した中で、86,2%の親が育児に関して「負担や悩み」をもっているとありました。

自分の子どもが、隣の子どもが、虐待の海に沈もうとしています。
海に「特別な海」も「普通の海」もありません。

子ども達が、たった一つの海「あなたの海」で助けを求めているのです。
(2005年1月)