ゲド戦記外伝/U・K・ル=グウィン清水真砂子・訳 岩波書店

ちょうど1年前、ゲド戦記シリーズ全5巻(今回ので全6巻)に読みふけっていました。(徳さん感想文2003年5月)
1巻目の『影との戦い』が世に出て36年、作者自身が70余歳になるまで書き継いでいる物語世界は、単なるファンタジーなどのジャンルを超え、読者の内面世界の映し鏡にまで昇華した感があります。

今回の外伝及び作者自身のアースシー世界解説は、明らかにJ・R・R・トールキンの『指輪物語』(徳さん読書感想文2002年3月)の国造りを意識したもので、そこまでの解説が必要かどうかは疑問のあるところですが、ファンにとってはたまらない外延となりました。

作品の中身についての詳細解釈や、『ハリー・ポッター』『指輪物語』などの大物語世界の流行についての批評もあるでしょうが、とにかく主人公たちと野山を歩き回り、闇の寒さに身を震わせ、ガレー船の帆を上げ外洋に漕ぎ出してみてください。

私は2度、駅を乗り越してしまいました。

暴力男性の教育プログラム ドゥルース・モデル/エレン・ペンス&マイケル・ペイマー編著 誠信書房

ようやく日本でも、児童虐待、DV(ドメスティック・バイオレンス)に関する関心と法案が不十分ながら緒につき始めました。
しかし報告される事件は、減るどころか増加の一途を辿り、何度もメディアを騒がせては加害者の非道をあげつらうことに終始しているばかりです。

何が原因なのか?どうしたら良いのか?様々な意見や考えがあるでしょう。
私も分かりません。
が、今しなくてはいけない事だけははっきりしています。
虐待を受けている子ども達、暴力を受けている女性達の安全を確保して、今の状況から救う事、これが第一です。
これだけは、一刻も早く動き出さなくてはいけないと思います。

日本の状況を見ると、初めてこの問題を知ったかのように右往左往しているのですが、欧米では数十年も前から問題化し、各種法案や社会システム、支援グループ、教育プログラム、介入プロジェクトなどが作られているのです。
アメリカでは1871年(130年以上前!明治になったばかりの頃!)に妻に対する夫のあらゆる身体的暴力を違法として、第一次世界大戦終結(1918年、86年前!)までには全州が、妻への虐待を禁止しました。
ちなみに日本のDV法が制定されたのは、2001年です。

というアメリカでも、すんなりとうまくいっているわけではない事は周知の通りですが、近年は被害者の保護と同時に加害者の教育プログラムの重要性が注目され、修正と検討、再構築が続けられています。
このような社会的取り組みの背景には、加害者男性の暴力容認意識として、ジェンダーも含めた社会制度や支配構造に対する社会常識が通底しているという理解があります。
DV運動史の中で、警察や裁判所、社会機関の代表者から強力な抵抗があった事が、その証明にもなっています。

この視点は、我々が児童虐待やDVを考える上で、再確認すると共に自分の問題化への大きな足がかりになると思います。
暴力を行使した彼女や彼だけが悪いのではなく、彼女や彼の常識や社会理念の「補強」として我々の意識が関わっているのです。

本書は、人口約10万人の都市ドゥルースの家庭内暴力介入プログラムDAIPの普及版(約300ページ)です。(本来のカリキュラム本は、かなりの分厚さ!)
デンバーのAMEND、ハワイのAVP、ボストンのEMERGE、セントルイスのRAVENとともにアメリカの代表的介入プログラムの一つで、各都市で独自のプログラムがあることに驚いてしまいます。
巻末の裁判所命令によるプロジェクト参加誓約書を読むと、最初の14週に2回以上、次の12週に2回以上セッションを欠席しない事や薬物依存検査の同意、移転の通告義務など細かく決められ、民事保護命令違反は90日以下の禁固あるいは700ドル以下の罰金に処されるのです。

スウェーデンの福祉制度を見るように、最もヨーロッパで遅れた社会制度を持った国が、各国の制度を踏襲した後に最先端の制度を作り上げる事が可能ですし、そうでなければ意味がありません。
本書のような書物や情報が、今後日本でどんどん発行され、より根本的な問題解決に進んでゆく事を願い、自分自身を見つめ直したいと思います。

それにしてもアメリカは、個人や夫婦間、親子間の暴力構造に早くから取り組んでいるのに、国家間の暴力構造にはあまりにも無自覚なのはどうしてなのでしょう?
意識の再構築が必要な、別の位相が横たわっているのだろうか?
(97年4月感想文)

「消えたマンガ家」/大泉実成 太田出版

水木しげるの徳南についてのコメント
「今どうしていますか。やはり餓死ですか。とにかく恐ろしいほどですよ。死屍累々ですよ。後ろなんか振り返れないくらいですよ。この世界は。」

日本文化が世界に誇れる数少ない具体例の1つは、マンガだと思っています。
まさしく梶井基次郎の『桜の樹の下には』のように、信じられない程美しい花を咲かす桜の樹の下には屍体が埋まっているのです。
山田花子の章もあります。
(2004年6月)