東京ー奄美損なわれた時を求めて/島尾伸三 河出書房新社

著者の父、島尾敏雄に学生時代心酔していました。
その世界は、どこかしら自分の心的世界と呼応しているように思えて、鑑賞とか読解などはまったく出来ずに、ただその手触りに癒され、安心を求めていたように思います。
あれから20年近く経った今でも、島尾敏雄については語る言葉を持ち合わせていません。

無意識な選択がそうさせているのでしょうか。
卒業してから島尾敏雄の文章を読むことは無く、息子信三の写真と文章の出会いを楽しむように読み次いでいます。

「やさしかったおかあさんに、どうして今ごろになって逢いたくなったのでしょうか。いいえ、これまでずっと私はやさしかったおかあさんを捜し求めていたのかもしれません。」

そんな想いで著者は、4人家族の暮らした街を辿りながら東京から奄美への旅を始めたのでした。

少し長くなりますが、小単元の全文を転記します。


国技館のドーム

小岩から秋葉原への途中の両国も焼け野原でした。そこには、広島の原爆ドームに似た国技館の建物が、爆撃を受けてコンクリートの外側だけを残して放置されていました。そこで、進駐軍の払い下げ物資の投げ売りが行われていて、マヤはまた「おしっこー」って言ったり、欲しいものを勝手に手にしていたりするのです。自分の洋服選びに夢中なおかあさんの目をごまかして、ゴミ箱のような売場からマヤが欲しがった赤い上着を私は盗みました。どうしてこんなことをやってしまうのか、やった後になって悩むのですが、子どもの目にはおとなのやっていることは警戒の行き届いていない隙間だらけで、そんなことが簡単にできてしまうのです。
赤い上着は縁側の下に隠しておいて、おかあさんのいないときに着るようにしていたのに、マヤはすぐに飽きて、その処分に困ったので、駅前の映画館へ行ってそこの入口に投げ捨てました。しばらくの間、赤い上着はドアの釘に忘れ物として吊るされていました。マヤはそのドアの前の手すりで、泥で汚れたパンツを丸見えにさせながら、近所の女の子たちとぶら下がりをして遊ぶのが好きでした。

かけがえのない地球366日空の旅/ヤン・アルチュス=ベルトラン ピエ・ブックス

ただ単に美しい地球を切り取ったカレンダーのような写真集なんかでは、もちろんありません。
「美しい」地球を撮ることが目的ではなく、違うコンセプトで航空写真を撮ったのに、結果的に他写真集では見たこともない、「美しい」地球が展開しています。

信じられない色彩、奇跡の造型、息を呑むその一瞬、生活の営み、人間の傷跡すら神々しく感じてしまいます。
ナチュラルな地球像だけでなく、積極的に人間が関わっている地球像を描き出すことで、人間と地球がありのままに生み出している「姿」が浮き上がり、それと共に人間の影響や責任が重くのしかかってきます。

365日ではなく366日の日付でそれぞれの写真が掲載されていて、自分の誕生日や恋人の誕生日にどんな地球の顔が写っているのか、確かめて見てください。

愛しく感じる気持ちが、恋人や自分だけではなく、地球までも広がってゆきます。
(97年4月感想文)

「見知らぬわが町ー1995・真夏の廃坑」/中川雅子 葦書房

先程からなんて書こうかと迷っています。
何度か一行目を書いては消し、又、別の導入文を書いては消しています。

17才の女子高校生が、偶然目にした不思議なある暗い哀しい風景をもった建物に出会い、その建物にまつわる歴史を知る為、自転車を漕ぎ漕ぎ書き綴った一冊です。
ここに知らずしらず忘れてしまっていた「知る」ことの動機と原点があります。

彼女は、歴史の遺物に出会う度、そっと手を触れます。
それを、解読したり、納得したりする前に手を触れます。

嗚呼、忘れていたような気がします。
生活することの意味にやっきになっていたこの頃。
僕はそのままで「いる」ことに、手を触れていただろうか?

いささか混乱した気持ちのまま、乱脈な文のまま、この本を推薦します。
(2004年5月)