「排泄学」ことはじめ/排泄を考える会 医学書院

実は、年末からこの本にかかりっきりでした。
嬉々として家族に直腸や肛門、泌尿器の図解を見せては顰蹙をかい、メモに書き留めては散乱し・・・
今年も無軌道な乱読を象徴するスタートですが、私は得ることがとても多かった一冊でした。

医療関係者によるカンファレンス形式で、様々な症例を検討・説明しているのですが、対話文体なので素人でも分かり易いです。
TVなどで観るお医者さんたちのカンファレンスって、こんな会話をしているのかと納得するとともに、担当医の知識不足による医療不全や、薬は誰でも出せるが専門職(医者)にはもっと金を出せとか、一般的に多忙な医者は患者の方が積極的に勉強(!)質問しないと、重篤な難しい患者よりも結果の見える(治癒結果が出やすい)患者に精力を傾けるのが当たり前などの意見もみられます。
もちろんそれらの意見にも反論が出て、症例だけでなく医療界やケアシステム、現状社会に対しての提言が述べられていて、「排泄を考える会」の真摯な取り組みを窺い知ることが出来ます。

「排泄問題」は、生きてゆく機能問題だけではなく、人間の尊厳や人生観に関わる重要な問題であると思います。
本書は、便秘になることを恐れて、すぐ下剤を処方する医者の無知を批判するとともに、強迫的な清潔社会の幻想と弊害にも警報を鳴らす良心の書です。
医療関係者だけでなく、我々が読んで、自分の、家族の、他者の排泄をもう一度考える必要がある気がします。


メモの一部を、ほんの少しおすそ分け・・・

膀胱には、200mlくらい溜まると尿意をもよおし、我慢すれば500mlくらいまで溜められる。
直腸には、150mlくらい溜まると便意をもよおし、300mlくらいまでは、我慢できる。

大腸は、腰椎と仙骨との間(岬角)で「結腸」と「直腸」に分けられる。
結腸は「結腸ひも」という縦に走っているすじ状の筋肉(縦走筋)があるが、岬角を境に縦走筋は全周を取り巻くように広がり、外から見て区別することができる。
直腸は15cmほどの長さで、上・中・下と3つに分けられ、肛門に近い「膨大部」に便がたまると強い便意が起こる。
一回の排便では、この「膨大部」内の便が排泄される。つまり3分の1しか出ていないのである。

括約筋は、内括約筋(平滑筋)と外括約筋(横紋筋)の2種類があり、内括約筋が無意識に締めて、意識的コントロール出来るのは外括約筋である。
事故や障害で、どの括約筋に問題あるのかによって、治療や日常生活でのアプローチが違ってくる。

普段直腸内は空で、1日に何回かおきる腸の大きな運動によってS状結腸から直腸に便が降りてきて便意をもよおしてきます。
便意を我慢する習慣にしていると、直腸に便があっても便意を感じにくくなる(直腸性便秘)

肛門と直腸は、直線的ではなく90度前後の角度(直腸肛門角)を形成している。(これは凄い構造です!図を書いて説明したい!)
排便時には、下前方に下がってきた直腸内の糞塊が、直腸の前壁(女性では直腸と膣の間の壁・直腸膣隔壁)にぶつかって、押し返され下後方に向きを変え肛門管内に入ってゆく。
直腸隔壁が脆弱化して直腸瘤が生じ、排便困難感や残便感の原因になる。

経産女性や子宮摘除した女性は、骨盤底のどこかに損傷を負ったり骨盤底弛緩が起き、支持力が不足する場合が多い。
それに伴って膣壁が引き伸ばされて膀胱、子宮、直腸などの骨盤内臓が、膣内に落ち込むようになる(性器脱)
経産女性の50%は多少なりとも骨盤底弛緩が認められ、そのうち10〜20%は排泄の不具合や性器脱の局所症状をあらわしていると言われている。
よって、女性の排泄困難感は、日常的な問題として考えなければならない。

毎日付き合っている「排泄」、奥が深いぞ!

仏教が好き!/河合隼雄+中沢新一 朝日新聞社

私は仏教徒でも、キリスト教徒でもイスラム教徒でも厳密な無神論者でもありません。(困った時は、先ずは神様、仏様・・・)
何か自覚的に信じる心が貧しい者のようです。
とは言っても生きてゆくことは、自覚的に信じていなくても、時代や社会や経験知や無自覚な要素を心の指標にして、それを「信じて」いることのような気がしています。

話巧者の二人が織り成すこの対談集は、一神教や多神教、仏教の性、幸福と「楽」、科学や曼荼羅など縦横無尽に駆け巡り「楽しい」説法書でした。
「瞑想」とは、呼吸法を用いて大脳新皮質の活動を停止させ、古い皮質を覚醒させることであるとか、生物は生存の条件からして(細胞膜をもって外界と境界を引いている)「楽」にはなれないというのが仏教の前提であるとか、私の角質化した脳細胞を刺激し続けます。
河合さんが言う、日本人は「宗教に無関心の人が多い特異な国である。これは別に日本人の宗教性の薄さに結びつくものでなく、半意識的な宗教心が、日本人をうまく守ってきたとも言えるが、これからはそのままではすまされないだろう。」との考えには、考えさせられることが多いです。

一神教的な世界観が世界を覆っているから、多神教的な仏教観が必要だなんて簡単なことではないのです。
半意識的に仏教世界が刷り込まれている我々が、意識化することで「ハッピー」や「幸福」になることでもありません。

仏教について、決して分かったわけではありません。
いや、むしろ分かったら違うのです。
分かることを拒否するとかでもなく、「分かること」と「分からないこと」も包括し、尚且つそれぞれに内包される世界観が仏教のように「感じ」ました。

「曼荼羅」の真ん中にいる大日如来は何も言わず、ぽわ〜っと煙を吐きだすだけなんです。
(2004年1月)