生命学に何ができるか脳死・フェミニズム・優生思想/森岡正博 勁草書房
いのちの女たちへ−とり乱しウーマン・リブ論−/田中美津 田畑書店

いずれにしても、踏み込むことに躊躇してしまうほど難しい問題です。
しかしこれらの問題は、年々技術が進むほどに複雑化の一途をたどり、考えられない現実が出現し、身近な問題として無視出来なくなってきました。

人が死ぬと言うことは、何をもってそう言うのか?
いつ死んだといえるのか?
目の前に横たわる体温を持ち、眠っているように見えるかけがえの無いこの人が死んだ?
この人の臓器を献体すると、尊い命が救われるという。その救われた人の体の中で、この人は生き続けるのだろうか?
救われた人とこの人、救われた人にこの人を感じてもいいの?
救われた人はどう感じているの?
目を閉じると「現前」してくるこの人との思い出。
この悲しみの中で、この人がいなくなってしまったという事実。
この混乱を時間が癒すという。ではこの混乱は忌むべき状態なの?
この混乱の中でこそ、最も身近に感じる故人との関係。
人が死ぬ、そして私が今ここにいるとは?

女の人が、自らの身体のあり方を選択することが出来るとは?
望まない妊娠ややむを得ず断念せざるをえない出産を、中絶というかたちで選ぶことはいけないの?
おなかの中に宿った胎児は、生きる権利は無いのか?
彼らは生きようとしていたのではないのか?
出生前診断によって、障害児だと分かった時の中絶をどう考えたらいいの?
障害者達の否定に繋がらないの?
障害児を持った親達の苦悩を、どのように見つめ、受け止めればいいの?
これらの論争は、出産を「大前提」または「良し」とした社会理念になっていないのか?
子どもを産めない、または選択として産まない女性の生き方を、認めて展開しているのだろうか?
子どもを産めない身体性の男性や、産む、産まない、そして産めない女性を、それぞれの「生」としてどう捉えてゆけばいいのか?

現実と情と理性と逃れがたい内面性の中で、千々になった心を我々はどう見つめたらいいのだろうか?

著者はそれらの叩き台として、豊富な資料と現実に横たわる袋小路からの脱却を目指した「生命学」を提唱します。
この「生命学」については、正直言って今後の展開を待たなくてはならない余地が大きいのですが、その余地の大きさは現実に生きている「矛盾の中でしか存在できない私」について、個々の深部から届く「揺らぎ」や「とり乱し」の大きさに由来します。
自身が書いているように、この生命学は旧来の学問のジャンル分けを拒否し、個人が自己を見つめる個別の体験を不可避にすることによって始めて可能になります。(まさに「自分の生命」を見つめるので)
故に、自然科学的な意味での客観性や実証はありません。

我々は、主観的で尚且つ一過性な死生観は「宗教」しか持ってなくて、科学に飽きたり嫌気がさすとどうしても論理や合理性の網の目をくぐったかたちでの「宗教性」に預けてしまいがちになります。
しかし現実には、正しく生きたいけど嫉妬や悪意をまぎれもなく抱いているし、女らしく男らしくなどの「らしく」の矛盾や反発を感じながらも、彼氏や彼女に気に入られたい本心も感じている「自分の現存する生」を、科学と宗教にだけ預けるには限界にきている気もしているのです。
にっちもさっちも行かなくなった生命倫理学と宗教とは違った角度から、現在の「生きている」ことと「生きてゆく」ことに取り組んだ意欲作です。

個人的には、「生命学に何ができるか」に所収されている「田中美津論」から読みとれる彼女の思想に大いに興味を覚え、「いのちの女たちへ」と足を伸ばしたのですが、フェミニズム論とかジェンダー論に絡め取られない豊かな命脈を感じました。
1972年(!)が初版であるこの本が投げかけているしている苦悶に、今ようやく現実が追いついてきたぐらい本質的な問題提起だし、今後に繋がる重要な視点が含まれていると思います。
彼女の思想については、後日折を見て書いてみたいと思っている次第です。

また「優生思想」とは、レヴィナスの「他者の到来」の可能性を予防的に排除し、我々の人生を豊かにする「奥の深い自由」を失い、生きる意味を見失うものだという意見には、はっとさせられました。

ただ、せっかくこの矛盾存在である我々「そのまま」を改めてつかみ直す提言がされているのに、その切り開く世界像のイメージに少し疑問もあります。
我々が留意しなくてはならないのは、今まで「見なかったこと」「見えなかったこと」に気が付き、視点を獲得したことが、今までの世界の中にある「隠蔽された世界」が出現してきたと考えるのはダメだと思います。
これは、「本来ある世界」「本質的な世界」があって、その世界の中で目隠しされている我々がいるという世界観に他ならないのです。
この世界観は、「本当の私」や「本当の世界や歴史」などと言う固定的且つ絶対的な世界像であり、「正義と悪」「身体と精神」の様な単純な二元論を支える背景でもあるのです。
あなたであれ私であれ、まだ見ぬ覚醒したすばらしいあなたや私が本質的背景としているわけでなく、今のあなたと私が「いる」のです。
目の前に認識している世界がどんなにつまらないものでも、あなたが見ている世界が「世界」(あなたと私では違う世界ですが)です。

簡単に言えば新しい知識や視点を得てあっと思った時、前とは違う新しいあなたになり、別の世界が目の前に広がったのです。
この「新しい」は、それこそ二元論的な良くなったり悪くなったりではなく、あなたが「新生」したと考えてみましょう。
なんだか刹那的だし、能天気で楽観的な感じもしますが、私は結構気に入ってます。
だって、これからも色々な喜びや悲しみに出会うでしょうし、その度に「新しい私」になるなんて良いじゃないですか。

(97年6月感想文)

「死因」/P・コーンウェル 講談社文庫

この人のサスペンスは最高です。
今迄出た7冊とも私は読んでますが、全てトップレベルだと思ってます。

私の勝手な解釈で言えば、日本のサスペンスがダメな要因は、主人公達の行動や推理にムダがないことだと思うのです。
人の思考は、ムダの蓄積です。

膨大なムダを繰り返す中で、ほんのわずか有効なものに出会うのです。
いや本当は、それもまたちょっと違います。
ムダとは結果から生まれるものです。
結論がでていない現時点で言えば、ムダも有効もありえず、全て可能性の圏内にあります。


近年僕らは、省エネで結果を得たいがために、合理的に可能性を弁別してきました。
それが近代の証だったのです。
しかし、残念ながら世界は、不条理の海に沈んでいるのです。
今こそ我々は気付くべきだ!
真剣に不合理なムダを築けと!


事件が起こると警察は、膨大な瑣細なことの裏付けにエネルギーを注ぎます。
あらゆる可能性を考えて、ムダだと思っても結果が出るまでは保留にして、考え続けているはずです。
それが基本です。
この基本が書かれてなくて、名探偵が核心だけを寸分の狂いも無く言い当てて解決する、そんなバカなと思ってしまうんです。

外国ものの優れたサスペンスやホラーは、ここのところがキチンと描かれています。
だからリアルだし、自然な人間の思考の流れをもっているのだと思うのです。

パトリシア・コーンウェル、彼女の作品は、不合理なムダが無駄なく丹念に描かれている秀作です。
(2002年4月)