とかげ/吉本ばなな作小泉今日子朗読CD盤

友人から送られてきたこのテープは、新たな驚きでした。作品自体は以前読んでいましたが、全く違う感動ものです。
言葉が身体(音声)を持っているということ、その言葉が人間の身体を通して発せられるということの大きさは、瞳を閉じて沈思するべきことだと思います。
小泉今日子の朗読は、必聴です。

100億年の旅2宇宙・地球・生命・脳 /立花隆 朝日新聞社
100億年の旅3脳とビックバン /立花隆 朝日新聞社
人体再生 /立花隆 中央公論社新社
サイエンス・ミレニアム /立花隆 中央公論社新社

いつもと変わらない朝が訪れ、ヒーヒーと仕事をして、やれやれと寝床に身体を横たえるやいなや一瞬の反省の時間もなく気を失い、気が付くと新しい朝がやってきています。
そんな日々がたんたんと続き、子どもの成長だけが時間の流れを確認できる毎日です。

日常の中で科学的世界を日々実感することなんて、殆どありません。
不満を感じたり、喜びに心躍ったり、感謝したり、悩んだり、なんだかそれらはみな文系の渦の中に飲み込まれているような錯覚にとらわれていますが、実は世界は科学の世界なのです。

時々報道される宇宙のトピックスや、微生物の脅威、身近な高齢者との出会いで考え込んでしまう脳や身体の不思議、人の死生に深く結びついた医学世界、SF世界も脱帽する人体再生の現実化・・・・
よく考えてみると、多くの科学の変化は私達一人一人の生活に絶対的な影響を及ぼし、その中でつつましい感情のやり取りを繰り広げているのですね。
しかしその感情のやり取りも神経伝達物質とか電位反応だとかで説明されるようですが・・・・

それはそれで興味深く好きなんですが、やっぱまだまだ文系幻想の中で漂っていたい気も少ししています。

現代思想の冒険者たち(12)ガダマー地平の融合 /丸山高司

(97年7月感想文)

名前は聞いたことはありましたが、どんなことを述べているのか全く知りませんでした。
今回本書を読んで、興味ある主旨と疑問を少し。

人間が生きているとはどういうことか?
この西洋哲学の伝統的な問いに対して彼は、師ハイデガーが掘り進めた「解釈学」を一歩進めて、人間は生きている限りいつも「理解する」のだと提出します。
常に自己理解や世界理解を行っており、そうしている存在が人間だと。
では「理解する」とはどいうことなのでしょうか?
「〜を理解する」「〜考える」というように理解するには、その対象が必要です。
しかもその対象が「対象」となる為には、すでに対象の把握(理解の先行構造)が必要であり、これをガダマーの「先入見」と言います。
私達の「理解」とはこの先入見を足場にし、そこから出発しなければなりません。
そしてこの先入見は、どうしても時代という歴史性を限界として持っているのです。

言葉を変えれば、私達はこの時代という歴史的存在なのです。
そんな私達が未来に向かうためには、現在に繋がっている過去の理解が必要となります。
そして過去の地平と現在の地平との相互交渉が「地平の融合」を生み、新たな自己理解が形成されてゆくのです。
この「融合」は決して完了されることはなく、たえず歴史的状況によって変化し続けているのです。
彼はこれらの基本理解から、「テクスト解釈」「世界経験の言語性」等現代的な「理性」の復権を目指して果敢に歩み進めて行きます。

私見で言えば彼の存在理解の基本は、ハイデガーの現存在の運動を、歴史的地平を用いて敷行したように思え、しかもその認識様式は、あくまでもヘーゲルの弁証法に依拠しているにすぎないように思います。
ハイデガーやヘーゲルの再評価とは違う方法継承は、残念ながらそれらの構図を維持している思考の疑問提出には無力だと思うのです。

しかしそれにもまして、彼の姿勢はこの閉塞した思想状況には、他に代えられないほどの勇気を与えてくれます。
ガダマーは現代思想が批判する「真理」思想の欠点をあえて掴み直し、思考する絶望から何とか再生することを試みているのです。
それは「表現」に失敗し続ける現代思想を尻目に、無限の「地平の融合」が、生きている「表現」であることに胸を張り歩み続けるかのように。