体は全部知っている/吉本ばなな 文藝春秋社

ここまで我々は、深く疲れているのだろうか。

実は読了後に、再度読み直してしまったのです。
全体でも200頁ほどの中に、13編の短編が納められているこの本は、はっきり言って実像が掴めませんでした。
いや、1篇1篇は分かりやすく、習作では?と思うほどのつたない言い回しがあるにもかかわらず、何かそんな読解をするりと抜け出て来るものがあるのです。
これはなんだろう・・・・

ひょっとしたら、著者はついに言語の指示性を脱ぎ捨てて、言語外の部分に直接触る方法を模索し始めたのかもしれません。
もちろん今までの文学も基本的には、この言語外へのアプローチ以外の何者でもなかったのですが、初めから言語世界での住民票を投げ捨てた上で、作り上げているのは稀有であります。
過去にそんな作品がなかったかといえば、文学史の中には確かにそのような試みの作品はありました。
しかしそれらは金字塔のように聳え立ち、一般人の立ち入りを拒否する神話だったのです。

「体は全部知っている」が成功しているのは、我々全てに門戸を開いていること、それに作家自身が「一般の人々は言語の神聖よりも、言語外が大事だということに気付いている」ということを、きちんと認識していることです。
そしてその言語外は、いまや苛立ちと不安が渦巻く荒野に成り果てています。
これは個人の問題でも、がんばりでも、一時的なものでもありません。
不可避的に訪れている人類未踏の問題なのです。

あなたが疲れているのは、「あなた自身に」問題があるわけではありません。
あなたに責任があるわけでもないのです。

一休みしてみましょう。
ゆっくりと目を閉じて・・・・・

あふれた愛/天童荒太 集英社

目を閉じて静かに息を吐き出してみると、胸の奥底に小さな痛みを感じます。
その小さな痛みは、ずっと昔からそこにいたのです。

一人、あの人を想っていた時。
寂しさや、押さえきれない激情に身を震わせていた時。
世界や社会が見えなくなったり、空気が怖くなった時。
倦んだ気持ちに、目の前の彩色を失っていた時。
その痛みは、優しく私を包み、ここにいていいのだよと囁きかけてくれていました。

光が流れ始めゆっくりと目を開けると、いつも爪割れた自分の手が見えるのです。
その手はいかにも自信なげですが、やや甲を傾けて指の間に風を感じていました。
そう。あなたを探していたのです。

停電の夜に /ジュンパ・ラヒリ 新潮社クレスト・ブックス

人は身勝手なことを自分に言い聞かせながら、いつも他人を探しています。
相手のことを第一に考えていると自分の耳に囁きながら、鍵指で背中の痒みをぼりぼり掻いているのです。

日常の中で折り重なっているのは、そんな保身の削り滓なのかもしれません。
お互いに手を差し伸べあいながら、相手の体温で暖を取り、暑くなるとズボンのすそで汗を拭います。
甘い吐息をかけてもらいたくうなじを優雅に傾けてはいるものの、朝の歯磨きは面倒くさいものです。

広げてみる書物の文字たちは、この頃は随分とお行儀がよろしくて、たった一つの滲んだ野郎も見えません。
そんな綿菓子も嫌いじゃないけれど、テメエの顔がたまには見てみたくなるのも人情というものです。

タンパク質の音楽 /深川洋一 ちくまプリマーブックス130

牛に音楽を聞かせると乳の出が違うとか、クラシックを流していると美味しくパンが発酵するなどという話題をよく聞きます。
正直言うとこの本を読むまでは、半信半疑でした。
しかしどうも眉唾ものとか、トンでも話とはちょっと違う、科学的検証が始まっているようです。

簡単に言うと、音の波動が物質のもつ波動性質に共鳴して、生命活動の変化を引き起こすということのようです。
モーツァルトやベートーヴェンの曲中の「あるフレーズ」が、タンパク質のアミノ酸配列のピッチによく似ていて、その共鳴作用によって、タンパク質合成に大きな影響を及ぼすのです。
牛は音楽を聴くことによって、お乳の構成タンパク質が増産されるのです。

これだけ聞くとやっぱりホントかよ〜と思いますよね。
私もそう思いました。
素人考えでも、様々な疑問が残ります。
現在では、体内の色々な酵素の働きや体内システムは、以前考えていたような単純な関係で成り立っていないことが判っています。
ひとつの酵素がある箇所では促進を促し、ある臓器では抑制を、またその濃度によっても効果が全然違ってきているのです。
故に音の波動が体内活動に影響があるとしても、単純に増産されたから元気になりましたとは言えないのではないでしょうか?
また、この考えの根本には、物質の波動性質が重要な鍵となっています。
とすると、タンパク質合成作用だけではなく、あらゆる物質の配列や関係が自然の音やあらゆる波動性の影響下にあるといわなくてはなりません。
そうなるとそれこそ天文学的な組み合わせの中で、考えてゆかなくてはならなくなります。

もちろんこの新量子力学理論は、今産声を上げたばかりです。
今後は、何処までこの理論に普遍性があるのか、冷静な研究を待たなければならないと思います。

しかし、しかしです。
より単純なバクテリア実験や熟成酵素の比較実験は、音楽があるなしの短時間で明らかな差異が認められますし、第3者による植物や家畜実験結果も確実に集まってきているようです。
それに、実験による副作用のデーター開示は、どこか科学的手法の正しさのように思えてきます。

かのアインシュタインが、ある実験データーの結果から、古典物理学の常識に反する光の粒子性を発表したのは、26歳の若造でした。
常識で理解できない現象は、非常識な公理の温床なのです。

音痴な私は、音楽公式などは全く分かりませんが、流行の癒し系音楽には確かにホッとするところはありますし、読経や聖歌、はたまた各地の民族音楽もどこか胸の奥底では同じ基盤を感じます。
あれは母の胎内だったのか、それとも地球生成間もない焼けつく海の中で聞いた歌なのだろうか。