「椅りかからず」/茨木のり子 筑摩書房

詩集が何万部も売れているという。しかし、よく考えてみれば何か異常のような気がします。

広いスペースに身を寄せ合うように置かれた数少ない言葉達は、可能な限りのイメージや比喩、そして想像力を使って私たちに語りかけ、我々は静かに心の底に沈んだ小さな石を拾いに行くのです。そんな孤独な作業の中で、不特定多数の人々が共鳴する「言葉」とは何ナノだろう。


木は
いつも
憶っている
旅立つ日のことを
ひとつところに根をおろし
身動きならず立ちながら
−木は旅が好き−


この言葉達からいきなり始まり、思わず背筋を伸ばし先ほどの不埒な考えが剥ぎ取られてしまったまま・・


そんなに情報集めてどうするの
そんなに急いで何をするの
頭はからっぽのまま
−時代おくれ−

もはや
できあいの思想には椅りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には椅りかかりたくない
もはや
できあいの学問には椅りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも椅りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
−椅りかからず−


その頃にはすっかり心の頭は下がってしまい、粛々と言葉を拝しておりますと


─言葉が多すぎます
といって一九九七年
その人は去った
−マザー・テレサの瞳−


新しい時代になった今も、身動きならず立ち尽くしたままの身ですが、まずはこの詩句達から始めようと思います。

「ぼっけえ、きょうてえ」/岩井志麻子 角川書店

やはりいるもんですね。
こんな「ぼっけえ、きょうてえ」(とても、恐てえ=恐い)世界をさくっと書き上げてしまう人が。

第6回日本ホラー大賞受賞作であるこの作品に対する書評はあちこちで目にしますが、どれも単にホラーであると言うことから抜け出ている作品の深さを、高く評価しています。
この単行本に収められたほかの作品を読むと、この作家の正当な力量が推し量られますし、受賞作の結末の疑問点もしっかりと作者自身が加味して次作に繋げていることが良く分かります。

作者には大変失礼ですが、期待していた以上の作品で驚きました。
何と言ってもこの岡山弁が恐いです。
ひたりつくようなこの現実感と、逃れえない不安感、そして生まれくる恐怖と生き続ける絶望。
それらが「死」という甘美な誘いを帯びた時、背中にはじっとりとした汗が浮かび、薄い三日月の形で笑う唇から声なき笑いがこだまし始めます。

江戸の24時間 /林美一 河出書房新社

(97年8月感想文)

たかだか150年前は、ドップリと江戸時代だったのです。この江戸時代は、日本ひいては自分の中の考え方のヘソを知る上でも、重要な時代だと考えます。もちろん江戸が完全に純粋な日本文化であったわけではありません。西洋やアジアの情報は常に入ってきていて、その流入を前提とした文化が日本文化の本質なのです。情報の処理の仕方、無視の仕方、アレンジ等、それらがいかにも“日本”という特色を表しているように思います。

僕の中での気が付かない「日本の発想」(嫌になることも多いですが、新鮮な驚きに満ちていることも結構あるのです。)を、江戸の文化を知ることによってポンと膝を叩けたらと思い、けっこう熱心に同類の本を読んでいます。

いやあ、これがまた面白いんですよ。
もっぱら考証学的な書物を好んで読みますが、その中でもこの林美一氏、僕は大変信頼していますし、特に浮世絵に関しては、第一人者だと確信しています。愚直なまでに史料にあたって、しかもその1点だけではなくその時代の人々の意識や気持ちに想いを馳せ、文化として語ってくれます。

本書は、様々な階級の人々のとある1日を生き生きと描いているのですが、長屋の住民たち、岡っ引き、旗本、将軍など、読んでみると驚くようなことばかりです。テレビや時代小説がいかに出鱈目か、筆者が腹を立てるのももっとものことと、大きく頷いてしまいます。とにかく全く違うのです。

例えば江戸の時刻計算は、「不定時法」というものですがこれは、<日の出から日の入りまでの時間>を刻の数で割るのです。
つまり、昼と夜の1時間の長さが違い、しかも毎日1時間の長さが変化するというものです。
文字通り日の出とともに1日が始まり、洸太郎が苦労している定刻の何時何分という勉強も、そこでは全く意味がありません。呼吸をしている生活が、世界の物差しなのです。

・・・そんな瓦ぐらい、どうでもいいじゃないかというなかれ。(中略)それが封建社会の階級観念というものである。・・・

このタンカに裏打ちされた“江戸”は、想像以上に刺激的です。