キリンヤガ /マイク・レズニック ハヤカワ文庫

とにかく帯の文句が凄いです。「SF史上最多数の栄誉を受け“21世紀の古典の座”を約束された、感動のオムニバス長編」!!
・・・どうです?これで読まなくては本好きの名に恥じるというもの。
読後感として正直に言うと「古典」になるかどうかは保障しかねるし、最多賞もそれぞれオムニバス短篇が受賞した数を合計したもので、コピーのトラップというところでしょう。
とは言え、500ページ近い本書を飽きもせずグイグイと最後まで読ませるストーリー展開はさすがです。それぞれの短篇の完成度、設定や登場人物達の苦悩、文化多様性への問題、会話に含まれている寓話性etc。

大長編はだるくて読めないという人、小難しい言葉にアレルギーの人、アフリカの大地が好きな人、そして、本好きのあなたにお薦めです。

ノーライフキング /いとうせいこう 新潮社

ネットで流れている本の探求リストを眺めていると、何人かの著者と本のジャンルが、繰り返し表れてくるのに気が付きます。それらは決して無名でもないのですが、週刊誌を大いに賑わせていたり、本屋のチラシ群に必ず見かけるほど、一般情報として流れているわけでもありません。「えっ?これって何なの。たんにマイブームの連中が、ネット上で噂を確認し合ってるの?」
いとうせいこう氏もその一人です。
彼の作品を読むのはこれが初めてで、本書は10年前のいとう氏の小説第一作です。

実はこの本を読んでみて、正直驚いてしまいました。PCが繋がっている世界は、どのような世界なのか、そのことに肉薄している作品に出会ったのはこれが始めてです。多分2年前の僕は、この作品の「リアル」は実感できなかったでしょう。しかし、今現在、キーボードを叩きながらこの文章を書いている僕は、分かる気がします。
指の先端でつながっている「ライフキング」の存在を!!

「小石の配列」を1つここに置いておきます。

水辺のゆりかご/柳美里 角川書店

著者の作品は何となく気になって読み続けています。
正直言って作家としてまだまだだと思うし、ダメだと言われればそうだなと思ってしまいますが、妙に惹かれるところがあるのです。

彼女の語る自分史には、頻繁に記憶を失っている箇所が出てきます。本来だったら忘れようもないほど重要な場面が、すっぽりと抜け落ちているのです。そんなはずは無いよ、それは異常な精神情況における自己防衛じゃないかと勘繰ってしまうほど、多くの記憶を失っています。

しかし、考えてみると、自分の重要な場面での記憶って、本当に事実だったんだろうか?自分でそう思い込んで、少しずつ印象的な場面を紡ぎだしてるにすぎないのではないだろうか。あの時、うるさく感じてたセミの鳴き声は本当だろうか。俯くあの娘の首筋にうっすらと浮かぶ汗に、ひどくドキドキした印象は?
人は、自分のことやら過去のことを思い出しては、それを事実と確信しているけれど、そこには必ず虚構の“自分の物語”を作っているのです。正直にと意識しても、無意識層で自分に納得のいく完結性を作っているものなのです。
それを、本当の自分史として人は生きてゆくのです。
「自分」の確認は、その記憶の連続性に負っているから。

重要な場面、彼女は重要度量だけ欠落させます。そして、細部を淡々と、細部の記憶として積み上げてゆきます。決定的な物語の核は、空虚な穴にしたまま語ることによって、反転した自己確認を行なっているのです。
想像以上の情況に、特異な感性が育ってゆくなら話は簡単です。それは僕らにとって、別の人の話だから。

本書の中では想像以上の状況に、僕らと同じ感性・感情の1少女が向き合ってゆきます。これは、堪りません。そこにあるのは紛れもなく、僕らの物語だからです。

科学がきらわれる理由/ロビン・ダンバー 青土社

ある人から「徳さんの考えを聞くと何となく分かるんだけど、具体的にどう考えていいか分からない。」と問われました。
このような意見、質問は大歓迎です。
一方通行的な回路は、送る方も送られる方も飽きてきて、動脈硬化による臨終となるのが落ちです。「徳さんの感想文」を「徳さんたちの感想文」にするべく、参加を強く希望します。

少し彼からの問いかけを、考えてみましょう。
確かに僕は執拗に、いかに今迄の自分達の考え方が時代や言語などに作られ、制限されたものであるのかということを言ってきました。
じゃあそれ以外のどんな思考方法がありえるのか、という問いが生まれるのは当然です。
しかし、その前に考えてほしいのは、自分の考えとは何かということ、またそれを考えるということは、「自分の考え方」の外部に出なければならないということです。昨日や今日ポッと与えられたものじゃなく、生まれてこのかた数十年自然に築き上げてきた考え方の「外」に出るとは、どういうことでしょう?
それは、全く違う考え方を思い付くことではないのです。まずは、自然に考える自分の“考え方”に気付くことだと思います。

自分の目では、自分の目を見ることは出来ません。しかし、鏡に映せば目が見えます。これは外部に出た自分の目を見ているとも言えるし、鏡の視点で自分の目を見ているとも言えます。いずれにしても目の外部に出て初めて、目を見ることが出来るのです。
不定型でもある“考え方”を見るのは容易ではありません。しかし、様々な場面、角度から“考え方”を見つめ直し、気付き続けるしか方法はないのです。

ではそうやって、少しずつ獲得した視界から見る僕らの世界は、どんな彩りの世界なのでしょうか。今とは全くの別世界なのだろうか。残念ながら私たちは、漫画のような突然の覚醒を得る機会はほとんどありません。新しい考えは、古い考えの変質でしかないのです。常に、出生する場所は、古い温床以外ないのです。
僕らは、ある日突然解脱して、全く違う思考パターンを獲得することなんかありません。イジイジ、ウジウジ考えたり、泣いたりしながら、昨日の自分の姿を見て、少しずつ少しずつ今日の自分を納得してゆくんです。

冷静に言えば、僕らの知識は西洋の知に大きく依存しています。そして、私たちが、その西洋知の代表である科学を否定して生きてゆくことが出来ないのも明らかです。僕が複雑系のことを言い続けるのは、この科学の思考方法に気付き、その外部に出るためなのです。そしてなお且つ、科学の本を読むのは、安易に違う思考方法に逃げ込まないためです。この往還をバランスよく繰り返してゆくことが、唯一の可能性のような気がします。
神秘主義や精神世界のある部分は、今後、科学的にも納得に足る領域となってゆくでしょう。もちろん別のある部分は、科学では証明できない領域となるやかも知れません。しかし、現段階では、それら全てをひっくるめて「新世界」を語るには疑問なのです。当たり前の思考回路を、どこか停止してしか描けない世界は信用しません。古い考えを引きずってしか、明日の考えを生きられないから。

本書は、近年批判的に言われる科学者からの反論です。人間は、常に観察して認識する。それが、考える基本であると論じています。科学は、結果としては多くの間違いを生むが、方法は人間の思考の理にかなっていると彼は強調します。

“考え方”の外部で観察し、“考え方”を考える。全く、科学的です。