セックスはなぜ楽しいか /ジャレド・ダイアモンド 草思社

徳さんの最大級のテーマである「性」についての一書です。何と言ってもこの題名ですよ。「Whyissexfun?」
本当にSEXが楽しいのなら、それに費やす時間や労力でその度合いが測れるかもしれません。
そうやって他の動物達の時間を見てみると、人間よりもはるかに長く時間をかける種が多く存在します。フクロネズミなど12時間も、交尾に集中しているんです!!(それはそれは・・・)
その行為中は、無防備であり捕食される危険性が一番高いし、受精が目的ですから前段階に余分なエネルギーを使う事は、本当は無意味です。それなのに頑張るのは(失礼!)やっぱり楽しいからなのでしょうか?身体形態と同じように「行動」も自然淘汰の制約を受け、それに伴なって変化すると考えられます。ならば、セックスを楽しく感じる必然的理由がそこに介在しているはずです。「楽しくない」ではなく「楽しい」が選ばれてきた、意味があるはずなんです。
私達がこんなにも性に支配され、また行動を選択する場合にも大いに影響を及ぼす「楽しい性」「楽しそうな性」を築いてきた、人類の必然性とは何なのでしょう?

本書は、昨年のピュリッツァー賞、コスモス国際賞を受賞した「銃と病原菌と鋼鉄」の著者による最新作です。とにかく膨大な数の理論とデータをあげて、少しずつ絞り込んでゆく様は、良質なサスペンスを読んでいるようです。
身体機能的には、人間のオスも授乳可能であるとか(身近な他種では実際に行なわれているんです!!)
他の動物ではほとんど見られない、閉経についての謎、など驚く事実満載です。とりわけペニスの件では、瞳孔が少し開いてしまいました。
勃起したペニスは、ゴリラでわずか3cm強、オランウータンでは4cm弱なんです。そんなので役に立つのかと冷笑するなかれ。機能的にも気持ち良さ(?!)でも、この長さで全く問題ないのです。
体位の多様性(木にぶら下がったままでの変幻自在)から言っても、持続時間にしても、4cmのオランウータンより人間は劣っているのです。自慢げに性文化を謳歌しているなどと言っていると、森の哲人に笑われますよ!
人類の祖先もこの4cmからスタートして、700万年〜900万年かけて約4倍近くまで拡張させてきました。どうしてそんなに長くする必要があったのでしょう?生きる事が精一杯だったその時期に、エネルギーと貴重な細胞を多く使って、ペニスを拡張していった意味は?この余分の約10cmは何の為に?
この約10cmの謎は、深まるばかりです・・・

増補日本古代呪術—陰陽五行と日本原始信仰 /吉野裕子 大和書房

今現在でも、古代史のロマンには多くの人が心惹かれ、口角に泡飛ばして議論をかわしています。
そんな何年もの激論も、たった1つの発掘品によって、全く的外れであったことが明らかになったりもします。全くヤレヤレである事は、確かなのですが、それがまた魅力のひとつなのでしょう。私もとり憑かれている一人です。
近年では、吉野ヶ里とか三内丸山遺跡がその例です。栗林を植林をしていたんですよ!遺伝子が同じになってしまうぐらい長い間!!僕が教えられていた縄文文化・・・あれって何だったんでしょう?
「腰に毛皮で、森林を狩りしていた」なんて、時代設定が数百年(!!)ずれていますよ。いやそれ以上です。
しかし、同様に今の認識もどこまで信憑性があるか定かではありません。

今日も何処かで、古代史の新説が花開きます。
陰陽五行は、日本史の一時期に絶大な影響を及ぼしていました。僕らは今現在、当然ながらその陰陽五行の思考で世界を見ていませんが、儀式や生活様式にその痕跡を見ることは出来ます。本書の様に忠実に、しかも徹底的に陰陽五行の視点で日本史全体を眺めてみると、物凄く新鮮ですし、ショックですらあります。
私は、久々に知的興奮を覚えてしまいました。特に「天智天皇近江遷都の呪術」「天武天皇崩御における呪術」それに「私見高松塚壁画」「陰陽五行と諸祭祀・行事」は必見です。

僕は、いつも思っているのですが、古代史を考察をする時には、その当時の海岸線、地形、人口、気温、降雨量等、環境データをもっと重要視する必要があると思います。
データそれ自体を確証することが難しいのでしょうが、その時の平均気温によって群生する植物が違っているでしょうし、当然それにともなって動物や人間生活も違ってきます。そこの地形を考えるということは、そこに生きる人達の視線を得るということです。
例えば、現在の地形そのままを想定して近くの山に登ってみて、眼下に海が広がっていれば、遠来から海人が来る事を期待する海洋性の神事があったのではないかと自然に考えてしまいます。
しかし、その当時の海岸線(これって、時代によって随分と違んです)がずっと後退していたら、むしろ神事は森林性のものだったかもしれないという考えが成り立ちます。同じ山の頂きから湧き起こってきたものについて、全く正反対の解釈が生まれてくるのです。だからこそ、その当時の環境データが知りたいのです。
その様なデータが、詳細に書いてある本を、どなたか知りませんか?

スプートニクの恋人 /村上春樹 講談社

この作品に対する感想を書くと、感想文始まって以来の長文になりそうです。それぐらい様々な感想や解釈が、僕の脳裏を駆け巡りました。さんざん迷ったあげく、やはりまっ白で読んでもらいたいという気持ちが強くなって、紹介にならない一文を書くことにしました。

私は、前作の「アンダーグランド」「約束された場所」のサリン事件関連書から、彼がどう言葉を触り始めるのか、ものすごく関心がありました。作家、村上春樹が「アンダーグランド」という現実とのコミットを中心課題においた作品を経て、再びフィクションとしての物語を紡ぎ始めたのです。
やはり読んでみると、今までの春樹ワールドでは絶対使われなかったであろう言葉や文体・比喩が随所に見られて、徳さんは大変心騒ぎました。

現実と、現実を作っている言葉との間には、大きく深い溝が横たわっています。それは「私は、私です」という一文の意味する、はじめの「私」と、後者の「私」との違いにも似ています。
「現在」は、その違いが疑いようも無く白日の下に晒されてしまっているのです。「文学としての言葉」は寄る辺無きものとなってしまい、模索しようにも現実からはきっぱりと拒否されているのです。

ひと事で言うと「あちら側」と「こちら側」との間で、「作家自身が迷い・揺れ・不安定になっている作品世界」が、この作品の基本構造です。だから読者が途中で「こうだ」と断じて本を閉じてしまうと、全くその世界に触れもしなかったということになってしまうのです。お願いです。前半で本をやめないで下さい。(私もその誘惑にかられました。)

何を言っているか分からないと思いますが、とにかく読んでみて下さい。(そんな推薦文があるかよ!!)現代版、トルーマン・カポーティ「冷血」後です。

ファウジーヤの叫び /ファウジーヤ・カシンジャ ソニー・マガジンズ

本を読むことは、よく「出会い」と比喩されます。待ちわびた出会い、懐かしい出会い、運命的な出会い、そして思いがけない出会いなどです。
本書は、僕にとって深い問いへの扉となった本であったと、長く記憶されることでしよう。

この本は、女性性器切除(FGM)を逃れ、アフリカからドイツそしてアメリカへ亡命をはかり、その人権の国アメリカで、想像を絶する屈辱を受けながらも、自由を求め読けた17才の少女ファウジーヤの実際にあった物語です。
男子・女子割礼という風習があることは知っています。その風習に対する様々な意見がある事も知っています。しかし、その風習に直面し、悩みまたは選択する機会も与えられなかった多くの人達のことは、残念ながら僕はあまり知りませんでした。
日本には幸か不幸か、それらの宗教的風習や慣習はありません。しかし、男性性器に対する手術は医学的見地から行なわれています。僕が、はまって見ている「ER」でもこの間放映されました。
これらの問題に対する色んな意見は、直感ではなく深く問い掛けるべき問題が潜んでいます。この本を読んで、僕が大いに考えさせられたのはこの点です。

様々な言語や風習が、文化という名で語られています。A文化から見ると、全くおぞましい文化を持つB文化があるとします。それらをA文化価値で変更され続けると、B文化のアイデンティテーが失われ、B文化は消滅してしまいます。
今現在、どうしようもなく進行しているのがこの単一文化化です。西洋思想、人権主義、資本主義経済、世界言語としての英語化、インターネット、個人主義等々が、それこそ絶対的な権力で押し進められています。その様な現状では、多様性が失われてしまうと、多文化主義を主張する人達もいます。世界の趨勢から自分や民族のアイデンティティーを死守する為に、声高に訴え続けています。残念ながらその民族主義は、現在のコソボ情勢の背景ともなっているのです。
誤解して欲しくないのは、私が男子・女子割礼を守れといっているわけではないのです。それを否定する地平が単純に、アンチ男子・女子割礼ではあまりにも危険性が大きいのではないかと言っているのです。
文化のある一面の要素の否定は、反要素では駄目だし、非文化でも駄目なんです。