謎の大陰陽師とその占術/藤巻一保 学研

妖術や占術に興味がある人なら、この人の名前を聞いただけでムズムズとしてきて、彼のことを人に話したくなります。(これも術法の一つか?)
晴明の名前は、「今昔物語」「古今著聞集」「宇治拾遺物語」「古事談」などで散見しているが、今に伝わっている晴明像が形づくられたのは、江戸期に入ってからの文献に負うところが大きく、実像のほとんどは分かっていないし、はっきりしていることも50歳代以降で、それ以前のそれこそ晴明活躍譚は謎だらけなんです。しかしこれだけで「ああ、虚像のヒーローか、つまんねぃや」と速断してしまうのは間違いですよ。
著者は、様々な形で語られている晴明像を、物語生成のひな型や文献の背景、政治状況などに照らし合わせ、細部に渡って腑分けしてゆきます。しかも、平易な文章で漢字の固まりのような占術語を説明してくれるので、なにかしら、一見おぞましそうな魔物や鬼神・物の化達に対しても親近感が湧いてくるのが不思議です。
考えてみれば、古来日本には物の化達が町を跋扈し、言霊が飛びかい怨念・嫉妬やその類で賑やかな、闇を持っていたのです。
市中に電気が灯り、人心に合理性が植え付けられてくるにしたがって、闇は逃げる様に僕らの前から消えていきました。後には、ただ虚ろな洞らを抱えた人間だけが得意げにあぐらをかいています。
人々が、安倍晴明をヒーローに押し上げていったのは、占術を使い、魑魅魍魎達と共生する「人としての在り方」が懐かしく、理想と考えたからなのかも知れません。
それにしても人々の想像力は逞しく、中国の話や古典、浦島伝説などを吸収し、そうやって出来た物語を膨らませ、次なる物語へと変容させてゆきます。するとその物語を起点として、他の物語を取り込みながら自己増殖と分裂を繰り返すのです。その行程には、終わりも始まりも全く意味がありません。
今に伝わる伝説や、宗教・理念・常識なども皆同様に、このような有機体的な集合・離散を繰り返してきた「この一瞬の刹那」であるにすぎないのです。
このことについては、またゆっくりと書きたいと思いますが、今はまず呪文を唱え、ツバメに変じ飛び立たせるやいなや、相方がそれに向かって指をはじき、石に戻して庭先に落とす術比べの小気味よい世界の余韻を味わっていたく存じます。

四本足のニワトリ現代と子どもの表現/宮脇理編 国士社

このごろの美術は分からん!
何やら意味不明な金属をくっつけたり、ぶら下げてあったり。何の為か知らないけれど、大きな石が転がっていて、その横に下着が引っ掛かっている扇風機が置いてあります。それをまたペコちゃん人形がじっと見ているんです。何じゃありゃ。
マネキンの足と拡大された手の写真が、水槽に沈めてあったり。「押してみてください。」というスイッチを押すと、「押さないで下さい。」というテロップが出てくる。「なめとんか〜!」しかも、それを見るために金を取るとは「金かえせ〜」と叫びたくなります。
現代美術って、どうなってるんですか?
そこで徳サンの独断解釈を1つ。学術的・美術史的な裏付けは全くありませんので、御了承下さい。

A:美術の昔といえば、ミロのヴィーナスとか、レオナルド・ダ・ヴィンチですよね。(あまりのアバウトさで、涙が出そうだ。ウッウ〜)
B:それらの美術は何の為にあったのですか?
A:もちろん、美を愛る為ですよ。
B:おっ美を愛るとな。それは、どういうことですか?
A:あの美しいとするミロの曲線と8頭身を、素晴らしいと褒め、感動することです。それを究極の美として、皆で確認するのです。
B:成程、そうですね。あれは均整がとれていて、安定していますよね。存在感もあるし、きれいですから。でもその前は、他の女神が極上の美だったのでしょうか?
A:そりゃ、そうですよ。それしか無いのですから。でもそうやって、だんだんと洗練された美感を持つ造形物が作り出されてゆき、それが最上級の美になるんですよ。
B:はい、よく分かります。画家や彫刻家などの美術家達とは、その当時最高の美を現前に造りだす人々のことだったんですね。
A:その通りです。思い出しても身震いするほどの天才たちが、生まれてきました。天才が生まれ名作が生み出されると、人類の美がより美しくなったんです。
B:そうか。そうゆう訳だったんですね。しかしその美しいって何ですか。私たちが美しいと思っているのは、作品が生まれないと見れないもんですか?僕が、あ〜綺麗だなと思えるのは、いままで人類が積み上げてきた、美意識に、ピッタリ合うからなんですか?
A:う〜ん。そう言われると、簡単にそうですとは言えないな。
個人個人の中でそれぞれ美しいと感じたり、世界の見方を画一化していない「個人の感性」が、美術では大きな意味を持っているし、それを最大限に認めているのが美術の専売特許でもあるんだからな〜。
B:でもさっき、美術家は「万人」が確認する美を出現させる人々だと言ったじゃないですか。それをその当時の人々が、皆で愛でるのでしょう。皆が納得し、確認する統一美を。ちょっとそれって、矛盾するのではないですか?
A:そうだな。美術家は個人の美意識を基本に美を造り、僕らはそれをただ観賞するものなのかな。いや、でも僕らが美と認めなければ、それは美にならないから…でも美術家の表現する美は、非常に個人的な美感なんだろう・・・最大多数のじゃない極小の美の表現が、皆の美になるなんて何か矛盾だな〜。だんだんわけ分からなくなってきたぞ〜。
B:そうですね。少し論点をかえてみましょうよ。
有名な画家って生きているとき貧乏ですよね。(いきなり何や。しかもそれって誰が決めたんや!!)後になって何億円だとか、何十億円だとか言っているけど、その時なんて、飲まず食わずなんでしょう。
A:その当時の人々は、その画家の美的センスが分からなかったんだよ。後年になって、画家の観る世界がすばらしいと感じるように、ようやく追い付くのだろうね。
B:モネの描いた「睡蓮」なんて、実際に見える光景とは違うけど、光と色の関係がリアリテイを生んでいるし、何と言っても、見ていて心がなごむ実効力がありますよね。
A:そうだね。実物をそのまま描いている美しさとは違う、モネ自身が切り取る世界観に、私達は感動するよね。
B:でも、それって始めは大多数の共通認識できる美を描けるのが画家だったのが、今は、画家個人の美意識を追って大多数が認めるというふうに変わってきていないですか?
A:成程そう言われてみるとそうだね。美術品は、観賞物から自己表現物に変ってきたんだね。
B:そうか!絵や彫刻・建築・音楽・など美術一般は、愛でるものから「自分」を表現する手段となったのですね。だから美術の授業では基本的に(あくまでも基本的に)自分の見たまま、感じたままで表現しなさいと教えていたんですね。
A:そうです。そこでまた新たな問題が起き上がってきたのです。自己表現をしようとした時、考えなければならないのは「私」です。しかし、私ってなんでしょう。美しく感じている私とは。怒りを覚えている私とは。悲しみに涙する私とは。あの人のことがどうしても気になる私とは。あなたと違う私とは。あなたと同じ私とは。私を考える私とは。私は私ですというときに2回でてくる私とは?
B:世界や美を表現する前に、それを見たり感じたりする「私」が問題となったんですね。かといって、私はこれです。と簡単に提示できないですよね。写真やいままでの成績表を積み上げたって、それは私じゃないですし、まして肉体だけを指差されると、ちょっと待ってよと言いたくなります。美術においても「私」をどう表現するかが、大きなテーマになってきたのですね
そこで、そのものをストレートに表現することなんて無理なことに気付いた現代においては、「私」ということを表現するために他の様々な材料、時間、空間を織り混ぜて、ある比喩として表現しようとし始めたんですね。そうか、だからあんな訳分からない表現になっているのか〜。
A:そうです、それが現代美術なんです。だからこの頃は、美術という言葉よりもアートという言葉を選ぶ事が多くなってきたんです。
B:はい分かりました。美術が、共有美から自己表現へと変容したんですね。あくまでも自己追求の手段なのですね、美術って。そうだったのか。
でも…それって…。他者に見せる必要あるんですか?
A:・・・・・・・・・。

約束された場所で/村上春樹 文藝春秋

オウム真理教による事件とは、何だったのでしょうか?
改めて過去の事件を問い直すということは、僕らが着地させているイメージの物語を壊すということです。
オウムの悪信者が、全く関係ない一般市民を無差別に攻撃し死傷させたということ。麻原というイカサマ師に、単純についていった愚かな信者たちがいたということ。悪いのは彼らで、僕らは彼らとは全く関係ありませんetc・・・

僕らはそのイメージで無事一件落着させて、次のエモノ探しを繰り返しています。
どっかのおっさんが、「あなたたちは、それでいいのか。」と胸を張って言ってくれば、「はい、はい。良くないですよ。僕らの問題でもあると言いたいんでしょ。」と白けながら呟きます。正直言ってそんな責任のやり取りには、もう辟易しているんです。そんなやり取りなんかには、全然興味がありません。
気になることは、ただ一点です。
なぜ、僕らはこれらのイメージとして落ち着かせているのか。
どうして、この構図で安心してしまうのか、ということです。

前作の「アンダーグランド」を読んで素直に感じたことは、一つの事象があると、その事象にはそれにつながる無数の人々の物語がある、という当たり前のことでした。
それにはもちろん、その事象を知った立場としての「自分の物語」がそこに内包されています。その意味で、僕らはあらゆる事件、日常、瞬間から自由ではないのです。
そのことを前作で、あの日に直接つながった人々の物語を、延々と読むことで自覚できたのでした。
では今回はというと、オウム信者達へのインタビューというよりも、この「自分の物語」自覚者たちへのインタビュー集だと思います。
素直にこのインタビュー集を読んでみると、皆驚くほど真剣に自分のことを考えています。学童期近くの早い時期から自分のことを見つめ、その為社会や世界に違和感を感じたり、外部を相対的に見ようと努めています。たとえその世界が稚拙だとしても、「自分の物語」に意識的に接近しようとしてきた者たちが、何故あのような愚かなまた残虐な行為へと走って行ったのでしょうか?

腹の足しにもならない「私は・・・?」の問いは、「分からない。」か「俺は〇〇だ。」か「助けてくれ。」に分化します。
「分からない。」はさらなる疑問を生んで、諦め放棄するまで続く、アリ地獄のようなものです。
「俺は〇〇だ。」はそこで問題は解決しますが。満足しているのは自分だけで、回りはハタ迷惑なだけの困った輩となります。
「助けてくれ。」は、一番人間らしく好感は持てますが、自分の物語を一つ大きな物語(宗教、国家、主義・・・)に預けて、別の次元へと歩み出す危険性をはらんでいるのです。

「俺たちだって自分のことぐらい考えてらい!」
その通りです。私たちは日頃、「私は…?」などという問いを立ててはいませんが、常に自己確認を繰り返しているのです。
自分のことを考えるために必要となるのが、他者です。他者あっての私ですから。
家族、友人、周りの人間、そしてテレビのなかの有名人、世間の注目を集めている事件当事者皆が、他者でありその人々のイメージを通して、自己決定しているのです。
あの人は、こういう人だという決定は、その深層に自分はこうだといっているんです。お金持ちだとその人を見る事は、それに比べて自分は…という心理が働いています。自分も同じ金持ちならば、金持ちである事は問題にならないから。
各種の事件当事者に惹かれるのも、同じ事です。大概は犯人の非道さとか、被害者の無念とか、事件の規模だとかが興味の中心となっています。しかし、その事件に我々が投影しているものは事件の実像というよりも、犯人ほど俺は悪意を抱いていないし、被害者の良さは、共鳴する分だけ自分にもあるのだし、あの事件現場の近くに自分も行ったことがあったり、知人がいたりする・・・ではないですか。
なにが悪いんだと開き直らないで下さい。良い悪いを言っているわけではないのです。その様に自然に思考している、と言っているだけなのですから。
その意味でも、事件や日常から「自分」は自由ではないのです。自由ではないどころか、事件を取り込むことによって「自分」になり、自分という事件を生み出しているのです。

彼ら自覚者の見落とした点は、外部との表裏としてしか自分はありえないことに気付かなかったことです。だから「単独」で「自分」が成り立ち、内界の救済が世界の完成につながると幻想したのです。そこで外部は、あくまでも「自己以外」だけで、ポアしようが内界とは基本的に別容器なのです。
外界との別なく埋没している僕ら無自覚者は、事件に触れて初めて「自分」を手に入れ、果てしのない他者探しを繰り返しています。
しかしそこには、大きな罠が待ち構えています。初めは「個々の差異」で始まる事件は、時を経るにしたがって一枚一枚僕らを蔽う大きな物語「私達」へと変容してゆくのです。
ゆっくりと身に纏う僕らは、自己確認の安堵に恍惚となってゆき、「私」から「私達」へと手を伸ばしてゆくのです。
気が付けば過去の事件は、自己すら投影出来ないくらい無意味な公式と化しています。
そこに見えるのは、「私達」の社会や国家の自己確認です。
自己の中に潜む悪意を社会の悪意に変容させ、それらを排除する事によって自己保身しているのではないでしょうか。
それが着地させたイメージなのです。

自覚者となるのも地獄、無自覚者でいるのも地獄。
どうせ同じ地獄なら、僕は別の地獄を探しにゆきたいのです。

ピーチ・ブロッサムへ 英国貴族軍人が変体仮名で綴る千の恋文 /葉月奈津他 藤原書店

今年最後の作品は、この「ピーチ・ブロッサムへ」です。
逃れようもなく私たちは、時代や他人の中に生きています。無理に右を向かされたり、うな垂れるより仕方がないような事に、身を詰まされたりもします。
顔では笑いながら、開き直る事や諦める事に必死で抵抗しているあなたに、心よりエールを送りたいと思います。

好いた人の事を想う事。親が子を想う事。人が人を想う事。・・・