寒い夜の自我像/中原中也

きらびやかでもないけれど
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明かなれば
冬の夜を我は嘆かず
人々の焦燥のみの愁しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす
蹌踉めくままに静もりを保ち、
聊かは儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諌める
寒月の下を往きながら。
陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!


縦書きの文字を読んで横書きで書く
いつ頃からだろうか、気軽に手紙を書くとき、決まって横書きで書くようになったのは。縦書きの便箋に文をしたためる時は、何となく日頃使ったこともないような慣用句を織り混ぜたりして、最後には決まって「敬具」にしようか「草々」にしようか迷ったあげく、2つの意味の違いを知らないことに気付き、気分が落ち込んでしまう。
又は、出来上がった文字が白紙を埋めている面積を横書きと比べてみると、どうも縦書きの方が広い気がする。縦書きですぐに改行すると、なにか廃屋に捨て置かれたよしずのように、随分と情けない体裁に感じてしまうからだ。
その点横書きはどちらかというと読み易く、要点がまとまって文意が通じやすい。その反面、流れるように読んだり、余剰を味わったりする文体ではどうもないようだ。文章に感情を盛り込もうとすると、妙に文末に!!マークが並んだり、え〜、とか、くださ〜いなどと、おちゃらけた表現になり、書いていて恥ずかしくなってしまう。
それにこの頃、入力画面上で文章を作ったり編集したりしていると、行頭の1文字空けた文字空間が、何となく儀式めいた、意味の希薄な行為に感じてしまうんです。
上記のようにただでも文章が短く、内容変異の多少にかかわらず、すぐ改行して読み易くしているパソコン文章のなかでは、特にこの空間が鈍感の象徴のように、ポカンと口を開けています。だってツールバーには、堂々と左揃えのキーが目を光らせているではありませんか。ボタン1つですよ!わざと途中に空間を作り、角度を変えて対岸に伸びる日本庭園の橋も、最短距離の直線橋にはかないませんよ。(…ウーム、そうかな〜)考えてみると、古事記にしても(句読点すらありません)、平安・江戸文章にしても、だらだらと絵の隙間を埋めてでも書き埋めています。あんなもの、慣れなきゃ読めやしませんぜ!
多分読み易くするために、句読点や段落が生み出されてきたのでしょう。さすれば、読み易い1点からは横書きにおいては、行頭の1語空けは無くなっていく運命にあるのではないでしょうか。今後、横書きパソコン文章が巾をきかせてくる時代になることを考えると、この予言はノストラダムスよりは信憑性が高いように思われますが、皆さんはどうお考えでしょうか?
もう1点、別の角度から考えてみましょう。なぜ横書きは、読み易さを重視する文体変化を辿るのか?徳さんが体験上、断言します。横書きは長時間読む時、又は文字の詰まった文章を読むには、非常に疲れるんです。なぜか目が疲れ、肩が凝ります。
さて、それは何故か?〈二等辺三角形と目頭押さえの一考察〉
人間が物を見るとき、基本的にはその物の正面を向いて凝視します。その物体との距離を正確に測るため、両眼とその物体とで二等辺三角形を形成します。物を見る基本は、この二等辺三角形です。縦書きの文章を読む時、上目遣いから下方に眼球を動かすことはあっても、文字との間の二等辺三角形は守られています。右行から左行に移って行く過程も、ゆっくりとした本の移動と顔の僅かな角度で成立します。
では、横書きではどうでしょうか?左目の鈍角と右目の鋭角の三角形から始まって、一瞬の二等辺三角形を過ぎるや否や、全く逆転した角度をもつ三角形作りへと邁進します。その運動量、又、自然体からはほど遠い行為が、目の疲れ、心身の倦怠に繋がっているのではないでしょうか。「ちょっと待ったー!横書きでも二等辺三角形を維持できます。」という、あなた。そうです。本を読んでいる速度に合わせて右方から左方に本を移動させるのです。すると、原則的には常に二等辺三角形が描かれています。成程、なれば腕の疲れはあっても目を上下させる必要もない「横書き・本移動」の方が、理にかなっているのではないか。さっそく徳さんは試してみました…。
さて実際に文を読んでみると、手も動くわ目も動く、挙げ句の果ては頭も動いて、なにか悪しき病に取り付かれたような不気味な行為と相成りました。文章を読む速度と腕を動かす速度が一致せず、その速度差を埋めるように目が動く。動いた先に移動する本があると、自然、気になって顔が向く。顔が向くと目の角度が変わるので、その角度の修正に目が一時止まる。目が止まると、その前をあざけるように本が通り過ぎ、慌てて目が動き、つられて回頭する。これじゃ、本は読めません。・・・・・・・・・・・・・・・・
今日も徳さんは、絶滅の危機に瀕している余韻があり、目にも優しい縦書き文章を読み。心の負担も少なく、文章切れ切れで、独断無責任に横書きの文章を書いています。

くっすん大黒/町田康 文藝春秋

7月の半ばに、念願のパソコンを買ってインターネットを始めています。今はインターネットの情報の集積に驚嘆する一方で、コンピューターの持つ世界観を、興味深く見ている情況です。
まあ、インターネットの件は別の機会に書きたいと思いますが、まずはこのコンピューターの思考方法です。やりたい目的に至るたどり方が、日本語とはちょっと違う。やっぱり英語文法思考と言おうか、セム・ハム語族系だなと、ぼんやりと感じています。
パソコンでゲームをするためには、
「スタート」→「プログラム」→「アクセサリ」→「ゲーム」→
「ハーツ」・「フリーセル」・「マインスイーパ」・「ソリティア」となって初めて、ゲーム画面が出てくるし。感想文のファイルを見るためには、
「スタート」→「プログラム」→「エクスプローラー」を開いて、
画面上の「デスクトップ」→「アイコンピューター」→「MebVO62d(C)]の中の340個の中の1つのフォルダーを開いて、15個中の「98・8・doc」を探すのである。
これって文字で羅列したら、何がなんか分からなく、前後の語句のイメージ関係や、何故そんな所を通ってゆかなければならないか、皆目分かりません。
しかし、何度かパソコンをいじって実際にマウスをクリックすると、そんなに大層でもなく、じゃあこうも出来るかな、と想像すら出来るようになります。これはやっぱり、道具としてかなり便利ですよ。
コンピューター思考を無視しては、この現代社会は成り立たなくなっています。多言語文化を越えて、シンプルで合理的な思考は、人間の思考基本形に近いのかも知れません。グローバル化できたのがその証明でしょう。このことは本当にすごいことだと思います。しかし、しかしです。それは世界を動かす言語が、単純化しているのではないでしょうか。自分の気持ちを表現するのに、多くの言葉は必要ないのです。「ムカつく」「キレる」。自己の内面表現が、隣人と同じ「ムカつく」で事足りるはずがありません。しかし、世界はシンプルな言語で起動し始めたんです。
徳さんは、これらを非難しているわけではないのです。これらが「コンピューター思考」や「大物語不信」「言語不確定」「自己の根本的不在」「中心無きカオス系」などに繋がっているんじゃないかと考えているわけで、しかも、どう繋がっているか知りたいんです。1つの画面を実現させるために、無味乾燥な言葉の羅列を必要とし、その関係がいかに奇異であろうが、その奇異さの中に問題は生じないのです。
『くっすん大黒』
言語の切れ切れが、必然もなく、ただ全くの裏切りもなく連なって、ある不安定な画面を立ち上げます。
その画面に手を入れ編集するのではなく、「あっ、そう。」と、その画面をタスクバーに入れて、次の画面を立ち上げる作業に勤しみだすのです。僕らは。

クリスマスのフロスト /R・D・ウィングフィールド 創元推理文庫
フロスト日和 /R・D・ウィングフィールド 創元推理文庫

日記にその日の気温を書きとめているというお客さんに、去年と比べてどうか調べてもらった。すると、去年と温度的には大差ないらしい。ただ、雨量が少し多いのではないかとの感想だった。
のど元まで「えっ、雨量まで書いているのですか。」と一瞬出かかったが、やっとのことで押し止めた。お客さんは、ちょっと思案げにこう呟いた。「きっと湿度が高いせいで、今年は暑く感じるのでしょうね。今度から湿度も書いとかなくては。」……………「ええ、お願いします。」
こんな夏に読む本は、ミステリーに限ります。しかも、外部のうだる熱気を忘れさせてくれる程、上質のミステリーに。’94年度海外ミステリー第1位、’97年度海外ミステリー第1位のフロスト警部シリーズです。
インターネットでは1000件以上ものフロストの感想文が並び、皆フロストのだらしなく下品なジョークに絶賛!!次から次へと事件が起こり、日頃怠っている書類期日は遅れに遅れる中、我らがフロスト警部はあっちこっちに悪態をつきながら、ものの見事な行き当たりばったり捜査。とても解決しそうもない事件群が…。
早くも、徳さん今年度ベスト10入りを確定にした「フロスト日和」は、本屋で見かけたら買っておくように。

落ち着きのない子どもたち/石崎朝世 すずき出版

先月に続いて、多動症候群に関する本の紹介です。
本書は、具体的な対応を中心に詳しく取り上げてあって、大変得るところが多かった。特に身体コントロールを高める様々な運動法が、絵入りで書かれていて分かり易い。それらを読むと、僕らの運動やボディ・イメージが、細かいバランスコントロールや統合イメージの連係によって成立していることが、深く理解できます。
この本を読んで改めて考えるのは、僕らが何気なく行動したり、遊んだり、他者と関係を作ったりしていることは、実のところ“生きている生物”を維持・向上させるための訓練をしていることに、他ならないということなんです。
生きるとは?生きること自身が、訓練なんです。では、なんの為に訓練するのか?より生きやすい技術を獲得するために。生きるという行為自身の中には、生き続けるという目的しかありません。生き続けることに、人生の意味だとか、何の為に生まれてきたのかなどという問題は含まれていないのです。生きているという事象があるだけです。
ただ、人間は脳を肥大化させた結果、生きることに意味を持たせ、自分の存在の意味をその中で探るという幻想を作り出し、あろうことか、全く別物である“生きる”ことを脅かし始めたのである。本来別物なんです。《生きている》と、《生きて行く》。
辛い訓練は長続きしません。訓練の中に楽しみ、喜びを見つけ出してゆくことが大切なんだと思います。しかも、片寄ってなく全体的な広がりを持った楽しみを、自分の中で作ってゆくのが良さそうだ。しかし考えてみると、快・不快という局地的な要素を、全体性に引き伸ばすというのは、矛盾するのではないだろうか。
言うは難しいが、行なうは易しだ。遊べ。遊べ。心も、身体も。サルは、子どもの時大いに遊ぶが、成人するとほとんど遊ばなくなるそうです。人間って単に、成人しても遊べる動物だということみたいですよ。(遊ぶ)ということは、生きる身体も、生きて行く心も開放することなんでしょう。片方だけでは、(遊ぶ)には成りません。
日々、豊かな遊びを創造したいと願っています。