自分の感受性くらい/茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
友人のせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

立花隆・100億年の旅 朝日新聞社

この手の先端科学技術・理論紹介の本には目が無くて、思わず買ってしまいます。(文学関係は図書館に注文するのに!)
その抑えがたい欲望は、先月紹介した新しいパラダイム(考え方)の匂いをそこに感じ取り、禁断の果実を貪りたいという業のような気がします。
もちろん、コツコツと積み上げられて可能となる技術もあります。しかし、最先端と呼ばれる理論や技術は、従来の思考方法の延長線では決してありません。1つの基盤が出来ると、その指し示す方向と限界は自ずと分かってしまいます。新しい人達は自然、その他の分からない領域をいかにしたら解明できるのだろうと、思慮し始めます。当然ながら、旧パラダイムとは違った新思考法をもって、その試行に乗り出すのです。
このピリピリとした緊張と新世界が、徳さんは大好きなんです。
立花の表現は平易で、なおかつ的確です。難しそうな単語群も、ゆっくりと前後の文脈で再読すれば、必ず理解できます。本書の中心がロボット、人工知能、分子構造、遺伝子であるのは、将来像としてよく分かります。しかも、十年先の「夢の…」ではなく、数年後には可能ですという「夢」は、具体的で思わずオーと声を上げてしまいました。
僕達は自分や人間を、脳で考える中央集権的な高度システムだと思っています。しかし、昆虫ロボットの原理やシンプルな制御システムによる反応などを見てゆくと、実は末端独立型の情報処理機構を持っている、地方分権型なんだなってよく分かります。
大概は末端処理で、黙々と日々を過不足なく送っているのです。それに対して、あーだ、こーだと文句を付けて、ストレスを抱え込むのが脳なんです。脳中心主義は止めて、手足重視主義の方が以外とうまくいくかもしれないなと、フト思ってしまいました。
まあそれに気が付いたのも、最先端技術の本を脳が理解してなんだけどね。
本書中の東大・黒田研究室の「分子認識の仕組みを探る」には、興奮してしまいました。
分子には右型と左型があって(キラル)、それを分子同志が認識しあっていて、結合したり選別したりしているのです。自然結晶は全て、どっちか一方型であるのに、人工合成物は、左右等量の混合物(ラセミ体)になってしまうのです。
僕らが自己と他者の境界を必死になって模索しているその時に、分子たちはいとも簡単に、しかも明確に認識し合っているのです。おまけで言えば、同じ分子でも1つ1つは違っていて、しかも変化しているんだって。
僕と君のように。

三島由紀夫・・・剣と寒紅/福島次郎 文芸春秋

本書は、裁判所から出版・発売の禁止を命じられ、店頭から姿を消した問題の本である。
辛口に言えば、素人による有名人関係譚の暴露本。隣家の子供ビデオを延々と見せられる無為な徒労感と、おしどり夫婦の熾烈な暗部を覗き見て、小気味よさを感じ、少し自己嫌悪も感じる後味の悪さ。下手な文章で、自己満足的な話題の羅列。その中に自己弁護を書き込むことは決して忘れません。同性愛を告白し、抑圧され続けたことによる被害者意識で、同胞の連帯と世間の無理解・無慈悲を低音基調として奏で続ける、見られることの快感文体。
しかし、なにかチリリと胸に差し込む切実さが重く、時折思い出したように深く息を吸い込まざるを得ません。
人が人を好きになること、人と人が同時代に生きて関係を結ぶこと、このことが文学になる可能性は、ただ1点しかないように思います。人の存在と言葉が、5分5分になるその一瞬です。
明らかに本書は、文学としては転けてしまっています。しかし、酒場で聞く失恋話に退屈な気分を味わいながらも、本気で人に想いを寄せるその人と、激情に感動するのも確かです。
渇いた心では生き苦しい。

メス化する自然/デボラ・キャドバリー 集英社

中央公論4月号環境ホルモンは人類を滅ぼす
中央公論5月号環境ホルモンの何が問題か
国をあげて取り組む態勢を
文芸春秋5月号そんなに危険か環境ホルモン
Thisis読売5月号特集有毒社会
週間金曜日4・24号

今「環境ホルモン」の名を口に出すと、いかにも流行を追ったエセジャーナリストか良心化学者のように見られそうで、思わず口をつぐみたくなってしまいます。
マスコミで賑わっている論調は振り子のようなもので、危ない危ないと世間が騒げば、いや大丈夫だ世論に踊らされてはいけないと、知識人がテレビや雑誌で口角に泡を飛ばします。そんな振り子の振幅は徐々に小さくなって、遂にマスコミが情報を流さなくなると、残るは密林の小数民族か狂信者のように一部の人々が、世紀末の神話を語り継いでゆく。そんなお定まりのコースを辿ります。
まあ僕の興味の対称もそんな変遷を経るので、偉そうには言えないのだが、問題意識を持続するために、現状の問題点を整理しておきたい。
「ホルモンかく乱物質」はクロなのか?
限りなくクロに近いようだが、科学的見地で言えばクロだとは現在のデータでは言えません。そもそも「ホルモンかく乱物質」をクロだと証拠付ける研究が始まったばかりで、ほとんどデーターが出てないからです。
これは非常に重要なことであり、かつ危険性を胎んでいます。
科学者たちのデーターが全部揃い、あらゆる角度から検討した結果、やっぱりクロでしたとならない限り、クロにはならないのが正統な科学的見地です。しかもその結果、完全に手遅れになってしまいましたという真摯な科学声明も一緒に発表されるでしょう。
自然は複雑怪奇です。何気なく存在している蝶や花も、そこに存在する為には、気が遠くなるぐらいの偶然と微妙な決定に基づいているのです。精子が減少してきたり、メス化する生物が現われてきているのは確かです。その原因をいろんな角度から考察して、有力な容疑者の1つとして「環境ホルモン」が注目を集めているのです。科学的見地で言えば、あくまでも環境ホルモン問題は仮説です。
それとは別に、僕らの置かれている状況はかなり深刻です。慎重に判断し、最悪の状況を避けなければなりません。僕らに選択の過ちは許されてはいないのです。山ある仮説と切実な現実、しかも負けられない、これが僕らです。
可逆的作用と不可逆的作用。
胎児期にホルモン異常状況下におかれると、その影響は一生ついてまわる、つまり決定項になってしまいます。これを不可逆的作用と言います。それに対して、成体が受けるホルモン影響は一時的であれば、その反応が出たあとは元に戻ります。それを可逆的作用と言います。
「環境ホルモン」の及ぼす影響のこの両面を、微細に検討する必要があります。この物質は可逆的なのか、いつの時期だと不可逆的なのか。しかも、その物質と時期の組合せによる不可・可逆性は?また、一生育サイクルのうちの発現するパターンは?世代継承における発現・影響は?いま問題になっている性化の変移が分かっているほとんどが、オスのメス化なのに、巻貝はなぜオスのメス化なのか?
人類の滅亡は、身体抵抗力が衰えたときに現われる新・旧ウイルスではないかと、ぼんやりと思っていたのですが、ウイルスなどという他力ではなくて、身から出た錆というのは、あまりにもリアリティーがありすぎます。
とりあえず我が家では、カップヌードルは禁止になりました。ちょっとしたドライブの時、海辺で座って食べるあの味は、けっこう気に入っていたんだけどな〜。

最後に井口氏の指摘を書き留めておきます。
『沈黙の春』のレイチェル・カーソン女史、『奪われし未来』のコルボーン、ダマノスキ両女史、『メス化する自然』のキャドバリー女史。
「環境ホルモン問題を表舞台でリードしてきたのは奇しくも女性科学者と女性ジャーナリストであった。・・・(中略)・・・それぞれの研究分野で綿密な研究を行なっていたのは男性科学者たちであったが…。」

きみのからだのきたないもの学/シルビア・ブランゼイ 講談社

この頃は親も子ども達も、妙にきれい好きになってきたように思う。きれい好き程度ならもちろん悪いわけではないのだが、どうもこの程度を越えた脅迫的な清潔志向を感じるときがしばしば見られて、ちょっと待てよと、例の注意信号が点滅していた。
新聞でこの絵本のことを知り、さっそく図書館に注文したのだが、なんとアメリカでは大ヒットだったらしい。「無菌化」傾向への警鐘を、アメリカらしいアプローチで提出しています。


oゲロを吐いた後にのどが痛むのは、ゲロの中に消化酵素(胃液など)が含まれていてのどを溶かそうとしているからだ。
oウンチの中身は消化されなかった食物、水、塩類、腸の細胞、生きている細菌類やその死骸、および色素などです。しかも全体の約半分は、未消化物なんかではなく、細菌たちなんですよ。
oウンチの色は、胆汁の情況によるんです。胆汁と細菌の混ざりぐあいや量によって、様々な色に変化するんです。
oアマゾンのカヤップ族は何でも食べてしまうので、その結果のゲリを表す言葉が100以上もあるんです。もちろん様々なゲリは、彼らの豊かな世界観を表しています。
oオシッコの約96%は余分な水分で、残る4%には塩類、尿素、ビタミン類色素などが入っています。健康なオシッコには細菌はいません。空気中に排出された後に細菌が住みつき、アンモニアと炭酸ガスに分解するんです。
oつばは、1日平均1リットルも口の中に湧いてくるんです。
oつばのほとんどはもちろん水分だけど、その他は抗菌物質、塩類、ガス、酸を抑える物質、粘液、酵素などです。
o鼻の中には太い鼻毛の他に、鼻水を鼻の後ろに送る役割の繊毛があります。その繊毛は1秒間に約10回のスピードで蠢動して、6m/分の速さで鼻水を後方に運びます。
o足の裏には2.5㎝四方に約8,000匹もの細菌がいるが、顔にはもっと多くの細菌が住んでいるんだ。おでこなんかは同じ広さのなかに約800万匹だってさ。
o毎日1人の人間から100億以上もの皮層がはがれ落ちているらしい。死ぬまでには20㎏もの皮膚の死骸をこの世に残しているし、家のほこりの4分の3以上は人間の皮膚の死体だよ。
o僕らの身体は、約28日ですべて新しい皮膚と入れ替わるんだ。
o目やにの元になる涙は、1年間で37㍑も生産されるんだ。涙を流すときにするまばたきは1回に0.2秒、1分間に約20回します。一生の間には約5年分ぐらいの時間をまばたきとして使っているんだ。
o口の中には1億以上の微生物たちが蠢いていて、ムシャムシャと食事をしたり、出産をしたりしているんだ。なかなか壮大ではないか!
oおならは様々なガスの混合で、ほとんどが炭酸ガス、水素、メタンです。その他、インドール、スカトール、硫化水素などで、最後の3物質なんかがクサイ臭いの元です。おならの元はもちろん、腸内の細菌のおならです。
o胃が消化させるのに使う酸が原因で、ガスを発生させ、それが口から出るとゲップと呼ばれます。
o手の平と足の裏だけで1日0.95㍑もの汗が出てるんだ。くさい汗を出す身体部分は限られており、腋の下、お尻のまわり、頭皮などで、思春期ころから臭いを発し始めます。実は汗自身はほとんど臭わないのだけど、これらの個所で出てくる汗はねっとり系で、このねっとり系を細菌は好物として食べて、その結果くさくなるんです。


僕らは身体中細菌だらけです。知識としては、細菌と共生しているのを知っていても、目に見えないから「ウエー」と思いません。これって細菌の方が一枚上って感じだなあ。細菌の行為が人間の役に立たないと「害」「汚い」「腐ってる」といって、役に立てば「発酵」「共生」「善玉」などと単に言っているだけなんです。
かつて人間は特に意識してこなかった分だけ(衛生の戦いはあったけれど)それこそ「共生」していました。今日の人類は、無意識層で細菌との共生を拒否し始めてきています。これははっきり言って、生き物としてのセンスが失われてきてるのではないでしょうか。
人間は細菌から生まれ、細菌と共にあるのです。

生物はなぜ進化するのか/ジョージ・ウィリアムズ 草思社

生物学や進化論の本を読む時には決まって、成程!へー!、と新知識の喜びを得ます。しかしそれ以上に、でも、でも、と反論・疑問が吹き上ってきて、いつも釈然としない読了感を抱いてしまいます。そう分かっているのに、ついつい手に取ってしまう。欲望には、いたって弱い徳さんである。
著者は進化生物学の大御所で、R・ドーキンスらに多大な影響を与えた人物として有名です。何よりその発想と考え方が柔軟で、魅力溢れる一書です。僕らは概して、生物が進化する原動力は自然淘汰だと考えています。生命維持や種の保全の目的は、自然選択の厳しいフィルターによって、生物の身体や機能の変容を促され、その結果最適者が生き残れるのだ、と。
しかし、最近の考え方は少し違うらしい。
自然淘汰のベクトルは、現時点からズレないように作用していると考えるのです。つまり、生物の進化の潜在的スピードは考えているよりはるかに速く、自然はむしろ、そのスピードを押さえている役割があるらしい。高速な進化的変化によって、今現在の器官、機能が失われないようにしているのだ。自然淘汰の作用は変化することに影響するのではなく、変化を起こさないようにしているのです。えー、と思われるでしょう。僕もそう思いました。
じゃあ、どうして進化があるの?なぜ最適な変化として形態変容が起こるの?自然淘汰は個のレベルで起きているのに、種の保存の方が優位なのはなぜなのだろう?どうして耳はこんな形をして、2つしかないの?3つあればもっと高性能なのに。なぜ、消化器系と呼吸器系は分離し、交差しているの?オスの生殖器官と排泄器官は一緒なのに、メスは分離しているのはなぜなんだろう?…
どうして。どうして。なぜ。なぜ。???…
もっともらしい理由と、それを裏付ける生物種たち。それ以上に、理屈に合わない膨大な数の生き物たち。

人が老いるという現象は、死への接近を意味しているのではない。
老化とは、単に自然適応能力の低下を意味することであって、死への第一段階でも、死の開門を待つ人々のことでもないのです。
各器官の機能低下が起こるのは、生物の器官が成熟を頂点とする放物線を描くシステムである必然なのです。そしてその総体として、身体適応力の低下が起きます。それは結果として、ある死の確率が高くなるということであって、死のプログラムが老化ではないのです。
ある人が交通事故で頭を強打し、内出血により脳の損傷著しく死亡したとします。その人も、10年前なら敏捷性があり、とっさに手を頭に当て、衝撃を緩和したかもしれません。内出血も、新陳代謝能力が高く、対処できた可能性もあります。他の臓器も抵抗力があるので、全体機能停止に至らなかったかもしれません。
死の訪問は、身体能力差で左右し、必然ではなく確率の問題です。
マヤ暦の今周期最終年(紀元前3113年〜紀元後2012年・冬至)を、一緒に迎えようよ、おじいちゃん、おばあちゃん。次の周期が始まるよ。

地球温暖化で何が起こるか/スティーブン・シュナイダー 草思社

後年、現在はどんな時代だと評価されるのだろうか?
ある面では豊かで、また別の面では最も不幸な時代だと言われるに決まっています。では何が成熟し、僕らはその恩恵を受け、あるいはそのヒタヒタと歩み寄ってくる暗き影に怯えているのか?
正直に言えば、分かり得ないのです。
自分の内外で大きく崩壊し続けるナニか。死なないかぎり生きている、という悲哀を差し挟む余地さえない現実。
冷静になって考えると、何となく暗いイメージしか湧いてきません。しかし本当のところ、冷静になって考えなければならないのは、その中から明るい未来を見つけ出し、ゆっくりとでも実践することなのではないだろうか。
口では「人間って愚かだよね。」とテレビに向って語りかけ、本心はいとおしげに自分の脳細胞を撫ぜている。
環境ホルモンや地球温暖化、酸性雨、砂漠化、生物多様性の喪失など、グローバルな規模の話を聞くと、そんなところまで届かない想像力では、ああそうですか、たいへんだなあと実感を伴わない感想を述べるしかない。
どっか間違えて、実感などがわき起こってくると、眼はガラス細工のようにキラキラと輝かせて、人類の代弁者に成り下がってしまう。
環境問題の困難さは、偏にその多層なレベルと複雑な相互関係にあります。どこのレベルで立って考えてみても、その足元からすくい返されてしまうその問題性。積み上がるのは仮説の山ばかりです。
どうすればいいのだろう。皆目分かりません。
分かったり判断するには、資料も情報も決定的に足りません。その対象空間が巨大なだけに、多分見解が出るとも思われません。
僕らが持っているのは、手が届く程度のささやかな想像力だけです。
太古の人類は、突然動かなくなった隣人に、ある日花を手向けて土に埋め始めました。目に見えたり触れたりは出来ないけれど、自らの感情とその隣人の行く末に思いを馳せて、野に咲く花を添えたのです。
出来ることしか出来ません。
たった一輪の花だけど…。