若い読者のための短篇小説案内/村上春樹文芸春秋

人は、何のために本を読むのだろうか。……あ〜ダメだ、ダメだ。こんな問いのたて方をするから「人は〜」とか「本は〜」とか「〜のために」となってしまうんだ。いかん。いかん。
本の読み方は、個々人の読み方でいいんだとか、要はその人がどう読むかなんだとか、なんか結論顔で皆で言い合って、それぞれが安心している。
国語には本当の解答はないんだと、先生はアゴをちょっと上げて僕らに話していたけれど、解答用紙には筆圧ギンギンで大きな×印が、赤い鉛筆で刻まれていた。文芸評論など読んでも、頭の良い人が書いたことなんか何が言いたいのか解らなかった。
太宰の「走れメロス」や芥川の「蜘の糸」なんかも読んだけど、覚えているのは、メロスが駆けつけた時全裸で、女の子が真っ赤なマントを差し出し、メロスが赤面したこと。蜘の糸にぶら下っている主人公の下で、三角錐状にボロボロの人々がしがみついていた挿し絵が、妙に綺麗だったこと、そんなもんだ。
今までもいろんな本を読んできたけれど、残っていることなんて本の内容よりも、その時の自分も含めた全体としての印象に近い。思い出そうとすると、本の内容も少しずつは浮かび上がってくるが、同時にドテラを着て頭を掻きながら読んでいる自分や、当時付き合っていた彼女のことなんかが色鮮やかに浮かんでくる。気が付くと本のことは忘れ、虚ろな目で、にやついた顔をわけもなく撫でている。
こんな調子だから、後年の糧のために本を読んでいるわけでもなさそうだ。
では何故にと問われれば、好きだからとしか言いようが無い。物語はドキドキして面白いし、全然知らないことを知ると人に言いたくなる。ホロッとさせられたり、ジュワッと胸が熱くなるその瞬間も味わいたい。
そして、自分の気に入った本について話が出来て、「それってさー」「すごかよねー」と、方言形容詞を交わし合えるのは、最高に嬉しい。
次の本を読むのは、未知の貴方との会話を楽しみたいが為なのかもしれない。

母さんが死んだ/水島宏明ひとなる書房

厳寒の北海道で、3人のこどものお母さんが静かに息を引き取った。
死因は、餓死。浪費癖のある夫と別れ、女手ひとつで育ち盛りの男の子達を育てていく中、無理がたたり身体をこわしてしまう。
彼女は、助けを福祉事務所に求めた。生活保護の申請を求めにいった彼女に、日本の福祉は…。帰ってきてお母さんは、こう言っていた。
「死ぬほど恐ろしい目に遭った。福祉事務所へは、もう二度と行きたくない。」
この本を読むと、そんな福祉事務所がそこだけではないことが良く分かる。それは国政・厚生省・国民意識が作り上げた日本の福祉そのものだからだ。申請にいった人々に浴びせる信じがたい言葉や態度、ヤクザがもらい続ける不正受給、生活保護受給者に対する国民の冷たい視線と陰口。
「貴方の言われた通り『死んでもかまわない』死を選びました。満足でしょう。…福祉は人を助けるのです。くれぐれも忘れませんように」と遺書を書いての抗議の自殺。
凄まじいゴミの中、寝たきりになったお母さんは、嘔吐の跡や排泄物も始末できず、ミイラのように痩せ細っていった。
1月23日の早朝、次男の耕治君はトイレに行く途中、母親がいつもと違うことに気が付いた。母親の口元へ手をかざすと、すでに息はなかった。二度と光が宿ることがなくなってしまった母親の目は、じっと暗い天井を見つめていた。
弟の明を起こし、暖房のない冷たい部屋で二人は母親の顔を見つめていた。そこには、最愛の母の変わり果てた姿があるだけだった。

心はどこにあるのか/ダニエル・デネット草思社
知性はいつ生まれたか/ウィリアム・カルヴィン草思社

サイエンス・マスターズシリーズの最新刊。「心は…」とか「知性は…」という題名の本を読もうとするとき、初めから解答を期待してはいけません。「心」や「知性」や「精神」は、単なる概念なのですから。概念は世につれ移ろいゆくものだし、概念を生む「心」や「精神」は慎み深く、決して御身を表してはくれません。
じゃあ読む必要がないかというと、とんでもありません。科学思想というよりも科学的姿勢が少しずつ積み上げてきた古い材料の組合せは、時に思いもかけない贈物を届けてくれることがあります。「混乱」と「ちんぷんかんぷん」という付録つきですが。
心をどう見るか。心という複雑かつ柔軟な動揺は、何に起因しているのか。そんな働きは僕ら人間だけなのか。どのようなシステムで分化して、人間は獲得したか。等を決してあやふやにせず、解っている部分を精緻に積み上げ、解らない部分は、諸理論と可能性を仮定し、小さくても確実な一歩を踏み出そうとしています。これは「知性ー」も同様で、言語論・進化論・神経生理学・人工知能などを縦横無尽に使って、探求を試みています。
両著者とも現代を代表する科学者・哲学者です。第一級ということは、難解な理念を、平易な表現で提出できるということと同義なのだ。(こういう表現は、ダメということ。)
ふと気が付くと、かなり専門的な深部に届いていたり、用例の巧みさに上品なエッセイを読んでいるような錯覚さえ覚えます。
ただ、両者ともダーウィニズムを基調とした論調なのは、単なる偶然なのか、はたまたネオ・ネオ・ダーウィニズムの兆候なのか、ちょっと気になるところではある。

虫の思想誌/池田清彦講談社学術文庫
構造主義生物学原論/柴谷篤弘朝日出版社

本当に様々な理論があるものだ。ラマルクに始まった進化論は、ダーウィンによって一つの頂きをみることになる。当然、それに対する反論が生まれてきて、論争の火蓋は切って落とされた。と同時に、ダーウィニズムは、さらなる修正を行ない強化を図っていく。
一方、そんな論争を尻目に技術者たちは、その腕を研き、力を蓄え新技術が開発される。見たくても見られない世界のイメージ論争は、見えてしまったことにより新しいステージへと移行してゆく。かたや生物形態・行動学や、堅実な技術とも別なところで、「人間とは」と考え続けた思想が、新境地を開くと、やはりその思想を錦の旗に掲げ、生物学会に殴り込みをかけてくる。
僕なんかが、彼らの理論を読むとそのたびに「そうか、なるほど。」と、頷いて、これで今までの生物学の謎が解けたと、ホッと安心してしまう。次に、隣の本に目を通してみると、今さっき読んだ本が否定されている。ちょっと「?」が脳裏をよぎるが「な〜んだ、そうだったのか。」と胸を撫で下ろす。が、その横には、「反ー」と書かれている生物学の本。
こうなると、僕の頭ではもうお手上げである。いずれも膨大な実例と確信的な文体。どれかが正しければ、他のは間違いだと思うのだが。それではまちがっていた本に書かれていた実例達はどうなるのだろう。間違いなのかなあ。
生物界が、多様性に富んでいることは間違いない。その多様性を、なんとか理解したいと考えてしまう人間の業も、生物のもつ多様性の一つであることもその通りだろう。
最先端の知識をもって、自然界の多様性に取り組むが、それらをあざ笑うか如く実在する例外達。その遠大さには、思わず“神の御力”を信じてしまいたくなるが、人間種のなかに必ず不遜な輩がいて、新理論を掲げて自然界の謎に挑む。そして彼らは、一握りの実例とともに、混沌たる多様性の海に没してしまうのだ。
正直に言うと僕は、人間のもつこの思い上がった性格が嫌いじゃないんです。

レディ・ジョーカー/高村薫毎日新聞社

今年最後の本は、この本に決めていました。彼女の筆力の確かさと志の高さは、今の日本文学界では希少な存在であると断言できます。
個人の欝屈とした情念にこだわっていた彼女は「マークスの山」以降、その個人が相互に影響し合う関係性に、テーマが移行してきたように思います。「照柿」では、運命的な引き付けられ方をした男女と、その二人を結節に、さらに共鳴度を深める同性。今回では、複数の主要人物が、違った社会的境遇から、一つの事件を起点に、内面・外界の奔流に巻き込まれていく。多様な犯行グループ、警察、大企業、マスコミ、総会屋、政治家、被差別部落、障害者、男、女、生、そして死…。
欲張りなほど社会の要素を取り込み、現実に生きる個人の哀切に迫ろうとする彼女の文体に、特異な魅力がある一方、新たな問題も浮かび上がってきたように思われます。
立場の違う登場人物たちが、等しく緻密に描かれると、描き込まれる程、構図の中ではだんだんと均等化してしまいます。多層化し、複雑性を増してはゆくが、重点が失われ単調になってしまう。これが今の高村に対しての、批判の一つかもしれない。もうひとつ言うとすれば、主要人物たちの苦悩が、同根の匂いがし、しかも質が良すぎます。
変な批判だが、独断に任せて言うと、闇の濃淡が、苦悩の質の差を表現しても、涙の優劣にはなりえないことと同様に、個人の悲しみに、質の差は無い気がします。現実に肉薄する試みなら、そこに生きる人間が、上質でなくてもいいのでは。僕らは、些末で、卑小な苦海に沈んでいるのです。
苦言はこの程度で留めるとして、本当のところ僕は、彼女の作品が、大好きです。虚無感や、諦念観に陥ることをあくまで拒否し、弛まず考え続ける精神力に、つよく惹かれます。いや、むしろ憧れすら感じています。
もう一点、今回の作品を読んで気が付いたことがありました。二段組で、900ページ近い長編の中で、たった2ページだけリズムが崩れた箇所がありました。そこは、紛れもなく高村文学の核です。
後年、彼女の作品は、サスペンスでも、冒険モノでもなく、その分野の名作と記憶されることでしょう。

おじいちゃんの口笛 おねえちゃんは天使/ウルフ・スタルク文アンナ・ヘグルント絵

毎月、良い本には1〜2冊出会えます。
しかし、素敵な本は1年のうちに、運が良くて1〜2冊です。
今年は、ウルフとアンナの本に出会えました。